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長谷川等伯の「松林図屏風」
はせがわとうはくの「しょうりんずびょうぶ」 |
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作品ID | 58937 |
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著者 | 吉野 秀雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆27 墨」 作品社 1985(昭和60)年1月25日 |
初出 | 「東京新聞」1964(昭和39)年11月28日 |
入力者 | 大久保ゆう |
校正者 | POKEPEEK2011 |
公開 / 更新 | 2018-07-13 / 2018-06-27 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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水墨の絵から何か一つ選ばうと思案する間もなく、長谷川等伯の松林図屏風がはうふつと目の前に現はれた。上野の博物館にあるもので、いくたびかそこで見、そのたびに感動の溜息をついた絵だ。
六曲一双つまり十二扇の大画面に、濃淡およそ二十本ばかりの松が、遠近・高低・幹の直立と斜め等の関係を保ちつつ、見事な調子でさらさらと描かれてゐる。煙雨がいつぱいにたてこめ、かくれて見えない松も多いらしい。逆にいふと、松の見えない部分はすべて煙雨で、それがこの絵の余裕となり、そこに松を浮かせて情趣をかもしだす下地をなしてゐる。近くの墨の濃い松を見ると、幹は強く、葉はじつに鋭い。毛筆のほかにわらしべで作る藁筆を使つたのだらうといはれるのも、なるほどとうなづかれる。
しづかにながめこむと、自分はいつしか松の林を歩いてゐる。そして絵に対する時節が春ならなまあたたかい夕靄が身をつつみ、秋ならややつめたい朝霧がはだにふれる。それはいかにも日本の風土に即したやはらかい感触だが、それよりもさらに、松の木についてわれわれ日本人のいだく親愛の情がむらむらとよみがへるのを覚える。
〈一つ松〉と呼んで松を人間扱ひすることは、記紀歌謡・万葉集から実朝・良寛の歌にまで及んでゐる。〈松原〉もやはり記紀・万葉以来の好歌材で、〈あらら―マバラの意―松原〉などといふうつくしい言葉も残つてゐる。松の絵は日本だけのものではないが、日本人の血液には松への特別の感情が流れ、それが古来数多くの松の絵をかかせてきたといふ気がする。
しかもこの等伯の松林図は、構図といひ、用筆といひ、墨色といひ大和絵の浜松図などの形式をぜんぜん無視した斬新なできばえで、その新鮮さは桃山時代に生まれていまなほつづいてゐる。わたしはこの松林図に、日本的詩情の高鳴りを感じる者だ。
等伯は能登七尾の人で、京都へ出て狩野派を学んだがあきたらず、雪舟第五世を自称して水墨画にはげみ、かつ最も牧谿に私淑した。京都の龍泉庵や金地院の猿猴図をみれば、一目で牧谿の影響はわかる。しかし、この松林図になると、南宋の牧谿をぬけきつて純粋な日本の絵に化してゐる。わたしはそこをよろこぶ。
等伯はまた濃彩のいはゆるダミ絵もかいた。京都智積院障壁の楓図など、ほとんどその筆と断定される。が、それさへ例へば狩野永徳の檜図などとは行き方がまるで違ふ。等伯が千利休と親交のあつたことは、等伯が利休像をかいたことによつても察しられるが、等伯は利休とともに、時流にひいでた高邁な見識に富む大画人だつたとつくづくおもふしだいである。