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広島という名の由来
ひろしまというなのゆらい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本随筆紀行第二〇巻 岡山|広島|山口 暮れなずむ瀬戸は夕凪」 作品社
1988(昭和63)年12月10日
初出「中国新聞 夕刊」1953(昭和28)年1月11日
入力者大久保ゆう
校正者富田晶子
公開 / 更新2018-01-01 / 2018-01-01
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

輝元の築城
 広島城のことを鯉城というが、この鯉城というのはこの土地が己斐の浦に臨んでいたので、己斐が鯉の音に通じるところから、こう名付けられたものといわれる。
 講談調になって恐縮だが、豊臣秀吉が天下をとると、西の方で気になるのは毛利輝元であった。秀吉はなんとなく毛利氏の本城、安芸の吉田にある郡山の城を、どこかよそに移転させようと考えはじめたのである。西の毛利氏の山城、吉田の本城を、なんとかして平地に移して毛利氏と手をにぎりたいと、播州龍野の城主蜂須賀彦右衛門を使って、毛利輝元に広島出向方を勧めたのである。
 当時は広島ともいわず、この土地は見るからにアシのおい茂っていた、水びたしの荒れ果てたところであった。決して、川よ、とわに美しく、などといえるデルタ地帯ではなかった。当時の呼称でいえば五箇荘といわれ、鍛冶塚の荘、平塚の荘、在間の庄、広瀬の庄、箱島(白島)の庄の五つの地域で構成されていた。当時の岩鼻や比治山のスソは海中に洗われて、向宇品に当る手奈島や仁保島は、はるか海中に姿を見せていた。
 毛利輝元は、病没した蜂須賀彦右衛門に代わって秀吉の意を伝える黒田孝高の忠言もあって、ついに平城の建設を決めた。秀吉としては、山城の吉田を攻めるよりも、平城をつぶす方が手間ひまがかからないと思ったことかも知れない。もっとも、大阪城をみた輝元が、淀川デルタにできた城下町をみて、郡山城が山中にあって、物産の出入り口である草津港と五十キロ余りもはなれている不便を考え、将来をおもんばかっての五箇荘出向を決めたと考えても当然である。
 いよいよ、天正十七年二月二十日(一五八九年)、輝元は部下に床几一つを持たせて早朝に出発、途中北の庄(現在安佐郡安古市町)の福島大和守の館に一泊、その翌日、矢賀村の明星院山(現在の二葉山)にまず床几をすえた。ついで、牛田の新山(現在の見立山)、そして己斐の松山に床几を回して、はるかに葦野原の五箇荘をすみからすみまでテイサツし、ようやく箱島の南の島、いまの広島城跡に本城を築く決心をしたワケである。
 これらの山々から五箇荘を見た輝元の目には、はるか沖合いに白いカモメがとび、小さな漁船が一、二そう浮んで、仁保島などがはるかにかすんで見えたことであろう。
 同年四月十五日、築城のクワ入れが行なわれ、輝元の叔父にあたる二宮就辰、穂田元清が普請奉行となって工事が始まり、町人頭の平田屋惣右衛門も召し出されて、城下町建設に一役かった。
 築城の際に輝元は、明星院山で腹臣の福島大和守に、「五箇荘のいずれの地名を採用しても差し当りがあるので、祖先の大江広元の広と、なんじの福島の島を合わせて広島と名付ける」といったと伝えられているが、城を作った地点がもっとも広い島だったので、広島としたというのが自然のようである。

綱引きと川通りもち
 築城の際、佐東郡毛木村出身の佐々…

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