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金貨
きんか |
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作品ID | 58982 |
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著者 | 森 鴎外 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「現代日本文學大系 7 森鴎外集(一)」 筑摩書房 1969(昭和44)年8月25日 |
初出 | 「スバル 第九号」1909(明治42)年9月 |
入力者 | shiro |
校正者 | 館野浩美 |
公開 / 更新 | 2021-02-17 / 2021-01-27 |
長さの目安 | 約 30 ページ(500字/頁で計算) |
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左官の八は、裏を返して縫ひ直して、継の上に継を当てた絆纏を着て、千駄ヶ谷の停車場脇の坂の下に、改札口からさす明を浴びてぼんやり立つてゐた。午後八時頃でもあつたらう。
八が頭の中は混沌としてゐる。飲みたい酒の飲まれない苦痛が、最も強い感情であつて、それが悟性と意志とを殆ど全く麻痺させてゐる。
八の頭の中では、空想が或る光景を画き出す。土間の隅に大きな水船があつて、綺麗な水がなみなみと湛へてある。水道の口に嵌めたゴム管から、水がちよろちよろとその中に落ちてゐる。水の上には小さい樽が二つ三つ浮いてゐる。水船のある所の上に棚が弔つてあつて、そこにコツプが伏せてある。そのコツプがはつきり目の前にあるやうに思はれるので、八はも少しで手をさし伸べて取らうとする処であつた。
いつまでもここにかうして立つてはゐられないといふこと丈は、八にも分かつてゐる。そんならどこへ行つたら好からう。当前なら内へ帰るべきであらう。店賃が安いので此頃越して来た、新しいこけら葺から雨の漏る長屋である。併しそこは恐ろしい敵がゐる。八はいつでも友達と喧嘩をすることを憚らない。何故といふに、友達なら、打つか打たれるか、兎に角勝負が附く。あのこけら葺に立て籠つてゐる敵はさうは行かない。いくら打つても敲いても、勝負が附くといふことがない。彼は喊声を上げて来る。打つて※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-21]を拵へる。※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-21]が平になる。又喊声を上げて来る。又※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-22]を拵へる。又それが平になる。Sisypos の石は何度押し上げても又転がり落ちて来るのである。八が此敵に向ふことを敢てするのは、腹に酒のある間ばかりである。酒がなくなつては、どうも敵陣に向ふことが出来ない。実に敵といふ敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない。
八はぼんやりして立つてゐる。身の周囲の闇は次第に濃くなつて来て、灰色の空からをりをり落ちて来る雨が、ひやりと頭の真中の禿げた処に当たる。
停車場に電車が来て止まつた。軍人の三人連が改札口から出て、八が立つてゐる方へ、高声に話しながら来る。外には誰も降りなかつたと見えて、電車はその儘出てしまつた。
先に立つて行く軍人の雨覆が八の絆纏の袖と摩れ摩れになつて、その軍人は通り過ぎた。八は子供の時に火傷をして、右の外眦から顳[#挿絵]に掛けて、大きな引弔があるので、徴兵に取られなかつた。それで軍人の階級なぞは好く分からない。併し先に立つて行つた四角な顔の太つた男は、年も四十恰好で、大佐か中佐かだらうといふこと丈は分かつた。襟章も赤や緑のやうな際立つた色ではなかつたから、砲兵であつたかも知れない。その男は八の方を見返りもせずに行つた。跡から行く二人は皆赤…