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魔睡
ますい
作品ID58983
著者森 鴎外
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 7 森鴎外集(一)」 筑摩書房
1969(昭和44)年8月25日
初出「スバル 第六号」1909(明治42)年6月
入力者shiro
校正者館野浩美
公開 / 更新2021-01-19 / 2020-12-27
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 法科大学教授大川渉君は居間の真中へ革包を出して、そこら中に書物やシヤツなどを取り散らして、何か考へては革包の中へしまひ込んでゐる。大川博士は気のゆつたりした人で、何事があつても驚くの慌てるのといふことはない。世間の人の周章狼狽するやうな事に出くはすと、先生極て平気で、不断から透明な頭がいよいよ透明になつて来る。教授会議や何ぞで、何か問題が混雑して来て、学長が整理に困るやうな時、先生が徐ろに起つて、いつもの重くろしい口吻で意見を陳べると、大抵の事は解決を告げることになる。その議論は往々快刀乱麻を断つ[#挿絵]がある。それだから友人の間では、あの男を教授にして置くのは惜しいものだ、行政官にして事務を捌かせて見たい、いや一その事、弁護士にして、疑獄の裁判にあの頭を用ゐさせて見たいなどと云つてゐる。その癖当人は政事臭い事には少しも手を出さない。それは何でも半分為るといふことが大嫌だからである。ところが先生は小間々々した事にはすぐに閉口する。先づ旅行なぞといふ事になると、一週間も前から苦にする。それは旅行に附随して来る種々の瑣末な事件を煩はしく思ふのである。行李を整頓するなども其一つである。そんならその煩はしい事を人に任せるかといふと、さうでもない。友人が何故人にさせないのだと問ふと、どうも人にさせると不必要な物を入れて困るといふ。必要な物が有つたら、其上に不必要な物が交つてゐる位好いではないかと云ふと、それはさうだ、金持で、人を大勢連れて、沢山荷物を持つて旅行をするのなら、家財を皆持つて歩いても好いのだ、たつた一つの小さい革包を人に詰めさせて出て、旅行先で開けて見た時に、探す物が上の方にはいつてゐないと、おれは面倒だから、探す物を探し出さずに打遣つて置くやうになる、それ程なら、なんにも持たずに出た方が増だと云ふ。そこで、今日なぞは細君が留守なのだが、いつも内にゐる時でも手伝はせない。書生も下女も勿論遠ざけて、独りで遣つてゐるのである。
 博士は此度の旅行に必要な参考書丈を底の方へ詰めてしまつた。此の旅行は、関西の或大会社でむつかしい事件が起つて、政府の方からの内意をも受けて、民法に精しい博士が、特に実地に就いて調査する為めに、表向は休暇を貰つて出掛けるのである。博士はほつと一息突いて、埃及烟草に一本火を附けた。一吹吹うて、灰皿の上に置いて、今一息だといふので勇を鼓して、カラアやカフスやハンカチイフなどを革包に入れた。さて飲みさしの烟草を銜へて考へた。それは汽車の中で読むには何が好からうかと考へたのである。先生は市中で電車に乗るにでも、きつと何か本を持つて乗る。旅行をすれば、汽車で本を読んでゐる。併し決して専門の本を読むことは無い。読むには種々な物を読む。それだから哲学者と話すときは哲学の話をする。医者と話すときは医学の話をする。自分の専門の事はめつたに話さない。そ…

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