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山岳浄土
さんがくじょうど
作品ID59004
著者中村 清太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆10 山」 作品社
1983(昭和58)年6月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2018-12-20 / 2018-11-24
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 いまや白衣をぬいで浄光をはなつ山々、しずまりたもうかたを拝んで筆をとる。秩父おろしが枯葉をまいて、思いは首筋から遠く天外をかけめぐる。そこにまたしてもかずかずの、すぎし山間遍歴のあとがあらわれる。そしてなんたるしみじみしい景色だ。ゆったりした景色だ、清らかな景色だ。
 ゆらい老人は、むかしを語るをこのむという、そうかも知れない、が、なんでもむかしのものはよく、いまのものはわるいなどとは、そこにたしかにぐちがあろう。しかも山のむかしを渇仰するのは、けっしてそんな亜流ではない。老人でもないわたしでさえ、むかしというほどでない二十何年の山を、そんなにもなつかしむのは、ひとつはそれほど山のおもむきがわるく変わってしまったからだ。そのころの山はまだいかにも山らしい山であった。いまは――山の大彫像は、いぜんとして厳乎天半を領している、しかしちかづいてみると、そこにもここにも人間の猪口才がみにくいものをふりまいて、その荘厳をよごしている。便利になったという、まことに。しかしさすが自然のにおいも一歩しりぞいている。ちかづいたつもりが、あるいはかえって遠ざかったのではないか。しょせん文化にばかされてはいけない。気のどくなのはいま山に機縁をもとめるひとだとさえおもわれる。われわれはまだ幸いだ、おもいでのとびらをひらいて随時にその功徳にあずかれるから。ねがわくば山を山らしくまもることをこころがけたい、厳粛敬虔の念をもって山の万事に処してもらいたい、開発は必至である、いたずらに逆行をゆめみるのではない、ただ開発に第一義をわすれない慎みが肝要なのである。六歳の幼児を近県の山につれていった、登山電車があり、よいみちがあり幼児はよろこんだ、そしてきいた。
 ――山はどこにあるの?
 ――これが山じゃないか
 このこたえは、しかしはなはだ力がなかった。
 自然の純粋のすがたこそ尊い、自然の恩恵ここにきわまる。それを物質的にのみ解してはこまる、忘恩はもってのほかだ。このころの山民の眼のとがりようはどうだ。自然の恩恵はそもそも文字によって知らないのである、それには清純なる自然に参するを要する、文化進んでいよいよその須要を痛感する。大地はひとの母であり、その純乎たるすがたを山にみる。山をきよめよ、山にたしゅうをみちびくはよい、こころせざればかえって外見と逆に少数の霊能ある者のほか、その醍醐味にふれえないであろう。やがて山はにおいのうすれるにまかせ、しまいには伽藍やぶれ、壮厳毀たれ悲痛なぬれ仏をのこす廃寺のようになるときさえこないとはいえない。これをまもるのは、一に山に縁をもつひとの心にある、この神妙な心のもちぬしこそいよいよでて多きをうれえない。いわんや自然は粛々としていきている。たとえば十余年をへだててみた剣池の平では、鉱山のダイナマイトのひびき絶えて仙人の池畔疎林がしげり、南越餓鬼田圃あた…

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