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穂高岳屏風岩にて
ほたかだけびょうぶいわにて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆10 山」 作品社
1983(昭和58)年6月25日
初出「岳人 二六五号」東京新聞出版局、1969(昭和44)年7月
入力者門田裕志
校正者富田晶子
公開 / 更新2018-01-01 / 2018-01-01
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 月が岩かげを作った。
 横尾の河原にポツンと火がともった。
 多分、Sたちのたく火であろう。

 ここは屏風岩緑ルートにある通称一坪テラスの一角である。仲間はH山岳会のN。きょう二人がマキ小舎を出たのは熟しきった夏が河原をムンムンとさせている頃だった。
 私にしては大きい登攀かもしれないのに、寝すごしてしまう自分になにか中途半端なものうさを身体全体で感じていた。
 T4で大スラブルートへゆくという大阪の人たちを見送った。登ることに決めてありながら寝坊をした惰性が、そのまま動作を鈍くしていた。やっと腰をあげた時は、太陽はもう半分ほど一日の仕事を終えようとしていた。
 三ピッチ目のピナクルをまわる――三年ほど前、初めて、屏風岩の雲稜ルートをのぼった時のことが思い出された。いまはトップで、あの時はひきずられるようにしてそれでも気負ってのぼった。――
 扇岩で食事にする。「オーイ」、T4におきざりにした余分な荷物をとりにきてくれたSたちである。扇岩の上にのって手を振る。
 大股で歩き去る陽とともに何故かこの場から去りたいような気持と、それとは逆に時間をあと戻りさせたい気持、そんなものには関係なく陽は大分かたむいていた。
 私の山行ノートの一頁に、緑ルートの記録が一つ増えると思えばこのチャンスはのがしたくなかった。山は逃げない、しかしチャンスは逃げる。Nと私はどちらからも口を切ろうとしないほど迷っていた。
 大テラスからの一ピッチ目、頼むよといってNをみる。ここは左へ向かってアブミトラバースだ。ゆるい。いまにもハーケンがぬけそうで気持が悪い。その根元をじっとみる。そしてアブミをかける。カンカンに照りつけられて青白かったハングも、かげってところどころ赤茶けてみえる。四つほどアブミをかけかえて上部をみあげると、実に大きい。いくつか私の登った岩の中で大きいと思ってみた壁はあまりなかった。もう一度、Nを振りかえってみる。降りるならいまのうちだ。ピッチ数を心の中で数えてみた。一坪テラスまでゆければ上々である。
「どうしようか」
「どうでもいいよ」とN。
「ルビコンをわたるよ」私はシーザーの気持がわかった。「え?」「いくよ」
 一ピッチ目の確保点は窪んだ一人用のはずである。どうもここがそうらしい。ザイルは一七メートルほどのびている。二〇メートルあまりのぼると、それから……と虎ノ巻にはかいてあったが、岩場の距離はおおよその場合が多い。一先ず、ここで確保する。ハーケンがきいていないとこぼしながらNがのぼってきた。そして、そのまま直上した。右上で確保しているNのところまで、ハーケンがきいていない。こんなところでは安全のために上のカラビナにアブミをかけてのってから、下のカラビナとザイルをはずすという厄介なのぼり方をする。
 確保しているNの体をくぐるようにしてトップへ出た。ここも左トラ…

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