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悲しみの代価
かなしみのだいか
作品ID59024
著者横光 利一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「定本 横光利一全集 第二卷」 河出書房新社
1981(昭和56)年8月31日
入力者橘美花
校正者奥野未悠
公開 / 更新2021-03-17 / 2021-03-01
長さの目安約 124 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 彼は窓の敷居に腰を下ろして、菜園の方を眺めてゐた。
「あなたお湯へいらつしやる?」と妻が勝手元から、訊いた。
 彼は默つてゐた。近頃殊に彼は妻が自分の妻だと思へなくなつて來てゐた。
 妻は小さな金盥を持つて彼の傍へ來た。
「いらつしやらないの。」
「ああ。」
「私さきへ行つてくるわ。」
 妻は室を出て行かうとしたとき、また彼の方を振り返つた。
「三島さんはまだお歸りにならないでせうね。」
「もう歸るだらう。何ぜだ?」
「大久保の方を廻るつて仰言つたわね。遲くなるわよ、きつと。」
 が、妻は室を出てゆくと下駄を履くらしい音をさせながら、
「ちよつと、ちよつと、七輪を見て頂戴な。御飯がしかけてあるのよ。忘れちやいやよ。」とまた云つた。
 三島がいい家が見附からなくて、彼の家へ來てからは妻の容子がにはかに華やかになつて來たのを彼は感じてゐた。今も彼は、自分を意識してよりも三島の歸りを頭に描いて湯に行く妻をはつきり感じると彼の心は又急に曇つて來た。しかしそれよりも彼は自分の心が三島から放れて行きつつあるのを知つて恐ろしくなつて來た。彼が辰子を妻に持たないまではかなり澤山な友達を持つてゐた。それが二年とたたない間に三島ひとりを殘して殆ど總ての親しい者を失つた。それは彼から放れていつたのかそれとも親しかつた總ての者が彼を見捨てていつたのか? 彼はそれを考へる度毎に、妻が心を閃かせてゐる友達に對しては彼から少くとも放れて行かうとした態度をとつてきたことだけは否めなかつた。さうしてその中に友人の間で彼のさうした態度が評判になり始めると彼の所へと來る者が一人一人と減つて來たのにちがひなかつた。彼は幼い時ある易者にみて貰つたことがあつた。その時易者は彼の足の裏を眺めてゐて、この子には友達が出來ないと云つたことを彼は覺えてゐた。それが何の理由か長い間不安なまま彼には分らなかつた。が、今彼にはその理由が分つたやうに思はれた。しかし、その不思議な謎が、妻の辰子の媚弄な性格と彼の小心な性格との組み合せの中に潛んでゐたのだと思ふとなほ彼は恐ろしくなつて來た。それも初めのうちは、友達を失ふと云ふことよりも、妻の心の對象が完全に自分一人に向つて來ることの方により多く自分の幸福を見出すであらうと思つてゐた。だが、果して自分は總ての者を失つてまで妻を完全に所有しなければならない程、それ程妻の辰子の何處に價値があるのであるかと彼は疑ひ出した。妻が眞實に自分を愛してゐるなら自分の苦痛に同感して愼しまねばならない筈なのだ。それに妻は? 嘘だ! と又彼は思つた。幾度考へても彼女と結婚したと云ふことが間違つてゐたやうに思はれる。自分は妻の華やかな擧動に魅せられて彼女を愛し始めた。さうして彼女も自分の愛を感じて自分を愛したとは云ふものの、しかし彼女が自分に示した愛は、彼女が自分の失つた友人達に與へた…

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