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運命について
うんめいについて
作品ID59028
著者尾崎 士郎
文字遣い新字新仮名
底本 「尾崎士郎短篇集」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年4月15日
初出「文藝時代」1926(大正15)年12月
入力者入江幹夫
校正者フクポー
公開 / 更新2021-02-05 / 2021-01-27
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私はT旅館の二階から、四階の屋根裏へ移らなければならなくなった。下宿料が払えなかったからである。宿の番頭は近いうちに日本から私のところへ金が送り届けられることを信じているらしいので、追い出そうとはしなかったが、しかし、万一追い出されたところで困る筈はなかった。何故かといって私は自分の健康に自信があったし、秋に入って揚子江の沿岸は空気が高く澄みとおって、私の無鉄砲な放浪に相応わしく思われたから。
 何処へ行ったって人間は生きてゆけるのだ。何しろ私は健康だったし、労働をするにも女を買うにも、唯ゆきあたりばったりに歩いてゆけばよかったのだ。しかし四階の屋根裏は、すっかり私の気に入ってしまったのである。七月から九月にかけてまる二タ月を暮した二階の部屋はB路の表通りに向っていたので朝から晩まで、街の雑音に悩まされなければならなかった。毎朝、チャイナ・プレスの朝刊売りの疳高い叫び声が、窓の下で聞えると私は厭でも眼を醒ました。それから、通りの向い側の「水木両作」(左官屋)の店頭の、頭の禿げた肥った親方の怒鳴る声が聞えてきた。午後は大抵毎日一度ずつ葬式の行列が通った。その暑苦しい車の音が響いてくると私は耳をふさいでしまった。あらゆるものが不快であった。窓をあけると街から来る生ぬるい風が病毒を室の中へ流しこむような気がした。然し、屋根裏の部屋には高い窓にうつるゆるやかな眺望があった。窓の下は裏街の傾斜面で、傾斜面の両側にならんでいる古い煉瓦づくりの二階家のバルコンは大抵街路樹の深い葉かげにかくれていた。じっと見下ろしていると、その中に営まれている穏やかな生活が思われた。往来を歩いてゆく人間の姿がみんなびっこのように見える。だから、この室の中にいると私は高い望楼の中にいるような気がした。窓の左側には断崖のような倉庫が聳え、そのうしろが坂の曲り角であった。街路樹のかげに列をつくってならんでいる二階家のバルコンは夜になると一層私の心をひきつけた。そこにはうしろの窓からくる光を浴びて、それぞれの家の家族らしい人たちが嬉しそうにかたまっていた。雑音の沈んだ夕ぐれは空気が澄んでいるので、彼等の[#挿絵]きが顫えるように伝わってきた。ときどきマンドリンの音が聞えたり、桃色のナイト・ドレスが輝やかしく私の視野の中に閃いたが、街路樹の深い葉かげに遮られているので人の姿も顔も見ることができなかった。それは日が暮れてから夜になるまでの僅かな時間に過ぎなかったが、しかし、じっとして窓にもたれていると、ひそやかな幻想の中に身体がうきあがってゆくような気がするのであった。この屋根裏には私の部屋にならんで、ほかに二つの部屋があった。私の隣りの部屋には四十を少し越したばかりの関西生れの落魄れた相場師が住んでいたが、その次ぎの室――それは奥の暗い物置に続いていた――には六十近い一人の老人が住んでいた。そして…

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