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十三夜
じゅうさんや
作品ID59033
副題――マニラ籠城日記
――マニラろうじょうにっき
著者尾崎 士郎
文字遣い新字新仮名
底本 「尾崎士郎短篇集」 岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年4月15日
初出「中央公論」中央公論社、1944(昭和19)年4月
入力者入江幹夫
校正者フクポー
公開 / 更新2020-02-19 / 2020-01-24
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 十二月七日。椰子の葉が風にゆれている。ブルー・バードの河岸はいつも見る同じ風景ではあったが、鳴りをしずめた自然の中にさえ無気味な影がちらついている。ブルー・バードの並木道へ出るとさすがに冬の気配が心にせまるようであった。空は青く雲のかげも見えないほど澄みきっているし、防波堤の上には散歩服を着たスペインの女が何時ものように、ゆったりとした足どりであるいている。それさえも、現在の自分とはもう縁もゆかりもないもののように思われた。朝の海にはアメリカの軍艦が湾口に錨をおろしている。靄につつまれた大気をとおして一つ、二つと数えているうちに、このおだやかな海がやがて砲煙にとざされる日のちかづきつつあるという思いがぐっとこみあげてきて、私は急に胸のひきしまるのをおぼえた。
 人通りのすくないマビーニの街である。アカシヤの若葉にかこまれた事務所の門を入ると自動車をおりたところで同僚の相川に逢った。
「いよいよ切迫して来たぞ」
「うん」笑おうとしたが、すぐ何か厳粛なものにつよく胸をしめつけられた。笑いきれないものが唇の上によどんでいる。入口の掲示板には社員は食堂に集合すべしと書いてあるので、相川と一緒に駈足で入ってゆくと、食堂の中にはもう三十人あまりの同僚がぎっしりつまっていた。みんな緊張した顔をして椅子におちついているのだ。誰一人ものをいう者もなかった。
 そこへ南宮支店長が扉をあけて入って来るとすぐに持っていた書類を正面のテーブルの上へおろし、演説をするように四角ばったお辞儀をしてから、「御苦労さまでした」と、何時になくしんみりした調子で、殊更おちつこうとしている様子が、私の眼にもどかしく不調和なものに映った。
「時局がだんだん切迫して来たようですね、――しかし今すぐに戦争になるというニュースを私が握っているわけじゃないんです、みなさんと同じように毎日のラジオと新聞をよんでいるだけですが、しかし万一のことがあってもたじろがないだけの用意はしておきたいものですな」
 私のうしろの席で靴音がガタリと鳴って庶務課長の桃井が立ちあがった。「マッカーサーが昨夜幕僚をマニラホテルへ招いてなにかしきりに協議をしていたそうです――話の様子では日本人居留民は刑務所へ収容されることになったということを聞きましたが」
 すると支店長が不安そうに眼をしばだたきながら、
「おそらく戦争をさけることは出来ないでしょう、ただ最悪の場合に処してあわてないようにすることだけが大切です、日本人会ならびに青年団ではすでに避難の準備をすすめていますが、しかしこのことは今日まで秘密にされていました、もしこれが対手側にわかると誤解を招くだけではなく、逆に相手側を刺戟してどんな不祥事を捲きおこすかもわかりませんからな、それを警戒して今日まで準備のことは一切申しあげませんでしたがしかしもうその必要もなくなったようです…

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