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十三年
じゅうさんねん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「夏の葬列」 集英社文庫、集英社
1991(平成3)年5月25日
初出「宝石」1960(昭和35)年2月
入力者みるるん
校正者noriko saito
公開 / 更新2019-02-25 / 2019-01-29
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 明るい昼すぎの喫茶店で、彼は友人と待ち合わせた。友人はおくれていた。
 客のない白い円テーブルが、いくつかつづいている。夏のその時刻は客の数もまばらで、そのせいか、がらんとした店内がよけいひろくみえる。
 ふと、彼は、彼をみつめている一つの眼眸に気づいた。生温くなった珈琲にゆっくりと手をのばして、彼は、同じ窓ぎわの、五、六メートル先きのテーブルのその女をみた。
 若くはない。女は、そろそろ四十歳に近い年頃に思える。上品な紺いろの明石らしい和服を着て、同じテーブルには、娘だろう、肩をむき出したピンクの服の少女がいる。少女は、ソックスをはいた白い棒のような細くながい脚を、退屈げにぶらぶら動かしている。
 きっと、近くの会社にいる父親――つまり女の夫でも、二人は待っているのだろう。
 新聞に目をもどしかけて、だが、彼はその和服の女の眼が、べつにうろたえも、たじろぎもせず、じっと親しげに彼に向けられたままだったのにひっかかった。誰だろう。誰か知っている人だったか。二、三度視線を新聞と往復させ、ふいに彼の喉に叫びのようなものがのぼってきた。頼子だ。
 女は微笑をうかべていた。正面から彼をみつめる瞳には、何のわだかまりもなかった。
 しばらく眸を合わせたまま、彼は、苗字をけんめいに思い出そうとしていた。でも、思い出せたのは、薄いベニヤ板に黒ペンキで書かれた、「好文社」という文字でしかなかった。それが、あの小さな貸本屋の名前だった。
 まだ、いたるところに戦火の跡がみられた時代だった。中学生だった彼は、アルバイトのついでに本が読めるのをたのしみに、「好文社」の求人広告をみて入った。その店は学校の近くで、すると女主人の頼子は、ここから通ったらどう? といった。留守番がてらに。疎開先の彼の家からは、片道二時間もかけねば学校に通うことができなかった。
 ときどき、頼子は彼を食事にさそってくれたりした。戦災を免れた彼女の邸は、店のすぐ近くにあった。彼女は未亡人のようだったが、でもその夫は戦争では左脚に傷をうけただけで無事に帰還し、いまは事業の建て直しのため大阪と東京で半々の生活を送っていて、頼子は旧華族の娘だという近所の噂だった。
 バラックの貸本屋の屋根裏、二畳ほどの彼にあたえられた部屋の中に、ふいに頼子があらわれたのは、その年の秋、停電の夜半だった。目がさめると、もう頼子の姿はなかった。しかし、はじめての経験の記憶はあまりにもなまなましく、わけのわからない恐怖が彼をおそっていた。彼はその日荷物をまとめ店を出ると、二度と店には行かなかった。ただ、逃げねば、とだけ思いつづけていた。
 あれから、頼子とは一度も逢っていない。次に店の前を通ったのは一年以上もたってからだったが、店は隣の大きな古着屋の一部にかわっていた。奇妙なかなしみにみちびかれて歩み寄ったその邸も、表札がかわってい…

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