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亡霊ホテル
ぼうれいホテル
作品ID59105
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」 作品社
2007(平成19)年10月15日
初出「新少年」1937(昭和12)年11月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者良本典代
公開 / 更新2022-08-07 / 2022-07-27
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

惨劇の部屋

 伊藤豊治青年が洗面を済まして着換えをしているところへ、制服を着た給仕が朝の珈琲を運んで来た。
「お早うございます」
「ああお早う」
「好くお寝みになれましたか」
 伊藤青年はネクタイを結びながら、給仕の支度する珈琲の卓子に向って掛けた。――あまり機嫌の好い顔つきではない。
「よく眠れなかったよ君、一体この向うの部屋にはどんな客が泊っているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、実に閉口したぜ」
「向うの部屋と申しますと?」
「廊下の向うさ、この翼屋で、向うと云えば此室と廊下の向うと二部屋しか無いじゃないか」
 給仕はなにか思い当る事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼を外らした。
 伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍のある研究生で、恩師の鹿谷弘吉博士が、或る研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。――ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上の用務を帯びて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ独りでホテルへ泊ったのであった。
 彼の泊った部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向い合っている。その向う側の部屋から、――ゆうべひと晩中、女の呻くような悲しげな声や、長い紙を静かに引裂くような物音が、絶えては聞え絶えては聞えして来るので、妙に苛々と寝苦しい思をしながら一夜を明かしたのであった。
「――矢張りお聞きになりましたか」
 給仕はやがて声をひそめて云った。
「矢張りって? 何かあるのかい」
「あの部屋には何誰も泊ってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、――と申しますのは、実は極く内々のお話なのですが、彼室は『亡霊の部屋』と云って、私共仲間でも怖がって近寄らないくらいです」
「ふふふふ今どき亡霊とは古風だな」
「お笑いになりますが、現に昨夜、貴方様がそれをお聞きになったではございませんか」
 伊藤青年はふっと笑い止めた。――ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の呻声を思出したのである。給仕は更に声をひそめて、
「そうなんです、――此処だけのお話ですが、二年まえの冬の或夜、あの部屋へ泊ったお客様……御老人の方とその若い美しい夫人でしたが、お泊りになった晩、御老人が若い夫人を短刀で刺殺したうえ、御自分も自殺なすったという事件がございました。精しい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、扉の握を掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、――今思い出しても慄と……」
 給仕はぶるっと身を震わした。
「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、定って変な事がございますので、――今では使わない事になっているのです。然しどうか……この話は決して御他言下さいませぬように、なにしろこん…

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