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山岳美観
さんがくびかん
副題02 山岳美観
02 さんがくびかん
著者吉江 喬松
文字遣い旧字旧仮名
底本 「新選 覆刻 日本の山岳名著 山岳美觀」 大修館書店
1978(昭和53)年9月1日
入力者雪森
校正者富田晶子
公開 / 更新2019-09-05 / 2019-09-03
長さの目安約 123 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

[#挿絵]
岩膚

[#改丁]
[#挿絵]
雷鳥

[#改丁]
[#ページの左右中央]






[#改丁]



 今度協和書院から吉江、武井兩氏の山岳美觀が出る事になつたと云ふ。吉江氏とはまだ不幸辱知の榮を得ないが武井眞澂畫伯は年來尊敬する高士であるから院主の需に應じて、潛越を顧みず敢て一言を序する次第である。
 自分は畫の事は判らない、又美術と云ふものにも誠に昏いのであるから、繪とか鑄金とか云ふ方面から武井氏を知つて居るのではない。只知つて居るのは其精神であり其人格である。飽くまでも脱俗である中に常に進歩を求めて止まない。名利に對しては恬淡其物であるのにかゝはらず、情誼に厚く、約を守つて果さゞるはない。年耳順を過ぎて山河を跋渉するに壯者に讓らない。即骨髓共に仙なるものである。自分は山に生れ山に育ち、今は職として雲を眺めて朝夕を過して居る。而して殆んど多くの他の畫家の山や雲に對して常にひそかに異議をもつにかゝわらず、眞澂畫く所に對して未だ嘗て些の矛眉をも[#「矛眉をも」はママ]不調和をも感じない。却つて未知の現象を示され或は又名にのみ聞く外國の現象をまざ/\其の畫中に發見して我國にも亦斯れありしかと感ぜしめられる。のみならず、眞澂の畫に對する時、自分が幼時山に對して持つた畏敬を感ぜしめられる。誠に山は崇高である。山靈は常には微笑するが時には萬雷となつて吾人を叱[#挿絵]する。故に山に對して畏怖を感ぜざるものは眞に山を知るものではない。而して眞澂の山は本來此愴さをも畫くものであつた。山靈も眞澂も共に默して語らないが、其眼は共に炬の如く、常に眞理の幽玄を啓示する。山靈を畫きて神を得るもの古往今來蓋し眞澂を措きて他に有りとも覺へない。本書に收むる所實は未だ其如何なるかを知らないが、恐らく其眞骨頭を示すものであらう。本書が一日も早く完成して、早く其神韻に觸れたいと思ふ。

昭和十年六月六日 中央氣象臺に於て
藤原咲平
[#改ページ]



 四時を通じて山岳は人を呼んでゐる。その形態の多樣と色彩の變化と、麓より絶頂にいたる多種の場面と、空際に連亘する一帶無限の壯美と、雲霧の去來する變幻の趣きと、そしてそれ等を示しながら默々として不動の姿を呈しつゝ、その全體としての一種の色彩形體の交響樂を空へ向つて放散してゐるのである。
 私などはむしろ山岳美を語る資格はない。たゞ遠望して、山頂へ思ひを走らせてゐるばかりである。少年時よりのこの習慣が武藏野の果てに時としてくつきりと認めらるゝ國境連山を眺めやつて、いまでも胸の跳る思ひをしてゐるに過ぎない。併し山岳美と文藝との關係を究めるためには、私の餘暇をさゝげつくしても餘りある事である。
 武井眞澄畫伯にいたつては、私などとは異つて、山氣を呼吸し、體驗を重ね、山岳そのものの生氣がむしろ畫伯を通じて藝術的表現を求めてゐるの…

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