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「私」小説と「心境」小説
「し」しょうせつと「しんきょう」しょうせつ
作品ID59165
著者久米 正雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「編年体 大正文学全集 第十四巻 大正十四年」 ゆまに書房
2003(平成15)年3月25日
初出一「文藝講座 第七號」文藝春秋社、1925(大正14)年1月15日<br>二「文藝講座 第十四號」文藝春秋社、1925(大正14)年5月15日
入力者希色
校正者友理
公開 / 更新2021-11-23 / 2021-10-27
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 此頃文壇の一部に於て、心境小説と云ふものが唱道され、又それに対して、飽くまで本格小説を主張する人々が在つて、両々相譲らないと共に、それに附随して、私小説と云ふものと、三人称小説との是非が、屡々論議された。
 心境小説と云ふのは、実はかく云ふ私が、仮りに命名したところのもので、其深い趣意に就ては、いづれ章を改めて述べるが、只茲に一言で云へば、作者が対象を描写する際に、其対象を如実に浮ばせるよりも、いや、如実に浮ばせてもいゝが、それと共に、平易に云へば其時の「心持」六ヶ敷しく云へばそれを眺むる人生観的感想を、主として表はさうとした小説である。心境と云ふのは、実は私が俳句を作つてゐた時分、俳人の間で使はれた言葉で、作を成す際の心的境地、と云ふ程の意味に当るであらう。
 それに対して、本格小説の大旆を、真つ向に振り翳して居るのは、中村武羅夫君なぞで、「本格」小説なぞと云ひ出したのも、氏の命名なのであるが、つまり本当の格式を保つた、所謂小説らしい小説、と云ふ程の意味であらう。
 そして、勿論此の問題に就ては、いづれが是、いづれが非と言ふやうに、どちらが文学の本道であるか、はつきりした論定が、決して出来て居る訳ではない。又論定が出来る訳のものではない。恐らくは此の問題は、文学が少し進歩して来た頃から、永く色々な人々に依つて、論争され来つたもので、又同じ一人の作家に於ても、時期に依つて時々、其本末が疑問とされて来たものに違ひない。
 だから私が此処で、特に其問題に対して述べるのは、一時の文壇的な問題としてゞなく、謂はゞ矢張り永久の文学の道の一端に立つて、私は私なりの私見を、諸君の前に披瀝し、却つて寧ろ諸兄の教示にあづからうと云ふのである。
 私小説と、三人称小説、此の二つのものの是非も、それに附随して起つた事であつて、是も昨今の文壇に、著しく私小説の傾向が増え、それを支持する私のやうなものが出て来たので、改めて一部の問題となつたものである。
 先づ、論講を進めるのに都合がいゝから、此の、私の「私小説」の主張から初めよう。
 第一に、私はかの「私小説」なるものを以て、文学の、――と云つて余り広汎過ぎるならば、散文藝術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思ふ。
 と云ふのは、私が文筆生活をする事殆んど十年、まだ文学の悟道に達するには至らないが、今日までに築き上げ得た感想を以てすれば、自分は自分の「私小説」を書いた場合に、一番安心立命を其作に依つて感ずる事が出来、他人が他人の「私小説」を書いた場合に、その真偽の判定は勿論最初に加ふるとして、それが真物であつた場合、最も直接に、信頼を置いて読み得るからである。
 以下、その気持を、もう少し詳しく述べて見よう。
 それには、茲に私が所謂「私小説」と云ふのは、かの十九世紀に、独乙に於て提唱された、イヒ・ロマーン…

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