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海の中にて
うみのなかにて
作品ID59173
著者菊池 寛
文字遣い新字旧仮名
底本 「菊池寛全集 第二巻」 高松市菊池寛記念館
1993(平成5)年12月10日
初出「大觀」1918(大正7)年7月号
入力者卯月
校正者hitsuji
公開 / 更新2019-03-06 / 2019-02-22
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 二人の生活は、八月に入つてから、愈々困憊の極に達して居た。来る日も、来る日も彼等の生活は陰惨な影に閉ざされて居た。
 敬吉には、おくみの存在が現在の暗いじめ/\とした世界と、明るい晴々とした自由な世界とを、遮ぎつて居る障壁のやうに、思はれる日が多くなつた。おくみの羸弱い手が、自分の頸の廻りに、纏ひ附いて居る為に、[#挿絵]けば[#挿絵]くほど、深味へ陥ちて行くやうに思はれてしやうがなかつた。
 そんな度に、彼はおくみの軽挙が、恨まれ始めた。彼女の、余りに軽率な、浅慮な行動から、現在の凡ての苦痛が、萌して居るやうに思はれた。
 生活が、苦しくなればなる程、其当時の思出が、韮を噛むやうに、苦がくなつて来た。つい、四五月前迄は楽しい思出として享楽して居た、彼女との恋の発生や、経過などに就いての色々な情景が、今ではもう嫌な不快な記憶として、心の裡に澱んで居た。が、彼は彼女の過去の軽挙を、真正面から叱責したり、又その軽挙に現在の凡ての苦痛を、脊負はせるやうな、態度を見せる訳にも行かなかつた。
 彼女は、彼以上に自分の軽挙を悔いて居た。彼から叱責せられる余地のない程、自分で自分の心を責めぬいて居た。
「私の軽はづみから、貴君に迷惑をかけて済まない。」と、彼女は口癖のやうに云つて居た。上京して以来、彼等の生活に少しでも、苦痛の影が射すと、彼女はもう直ぐに自分の軽率を謝して居た。彼が、夫に就いて、口出しが出来ないほど、自分で自分の軽率を謝して居た。
 が、その軽はづみと云ふのも、彼女ばかりに脊負はせて置けるものでもなかつた。敬吉の方でも、その軽はづみを心から嬉しく思つた事があつたのだ。生活が今のやうに苦しくならぬ前には、敬吉は彼女の軽はづみを、叱責する心などは少しもなかつたのである。
 敬吉とおくみとは、北越のある田舎町を故郷に持つて居た。敬吉は、中学を出ると、直ぐ自分の町で、小学校の教師を勤めて居た。そして、若い教師はいつの間にか、その町の芸者で、一本になつたばかりの、おくみと恋に陥ちて居た。奔放な自由な青年であつた彼は、ある宿直の晩に、おくみを学校の宿直室に引入れて居たのを、校長の妻君に見附けられた為、彼は直ぐ免職になつてしまつた。小学校の教員に対して、絶大な尊敬を払ふ田舎の人々は、又彼等に少しの瑕瑾をも、許さなかつた。まして、学校へ芸者を引き入れる事などは田舎の、狭い世間では、許すべからざる大きな罪過であつた。敬吉は、町の人々から、恐ろしい排斥を受けねばならなかつた。それと同時に、敬吉の相手であつたおくみも、彼女の周囲から、可なり烈しい迫害を、受けねばならなかつた。材料に渇ゑて居た田舎の新聞は、一号や二号の活字を惜し気もなく使つて、敬吉とおくみとの関係を露骨に書き立てゝ、教育界の腐敗を攻撃した。敬吉は、家では厳格な父から、憎悪の眼を以て見られた。外へ出れば、出逢ふ人…

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