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雪今昔物語
ゆきこんじゃくものがたり |
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作品ID | 59205 |
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著者 | 中谷 宇吉郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」 朝日新聞社 1966(昭和41)年8月20日 |
初出 | 「自然」1947(昭和22)年6月 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2019-04-11 / 2019-03-29 |
長さの目安 | 約 32 ページ(500字/頁で計算) |
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一
もう十年前のことであるが、昭和十一年の秋に、北海道に大演習があり、天皇陛下が北海道に行幸されたことがあった。
その時に一日北大へ行幸の日があった。そして私は低温室の中で、雪の結晶の人工製作を天覧に供するという光栄の機会を得た。それが表題の『雪今昔物語』の機縁の起りである。
それから十年後の今年、昭和二十一年の暮に、私は東宮殿下への『雪』の御進講に上京し、引き続いて天皇皇后両陛下、さらに義宮様及び内親王様たちに、同じく『雪』の御進講を申し上げる有難い機会に恵まれた。
十年の年月は、不断の時代ならば、ただの一昔の話としてすませることである。しかしこの十年間は、千年にも比すべき十年であった。今回の御進講に際して、私は宮中にスチームが全然通っていないので、控の間では外套を着ていたということを、新聞社の人に話した。その話が北海道の新聞に出たのであるが、最近道内の某市の駅長さんに会ったら「その記事を読んで私は思わず涙をこぼしました」という話をきかされた。その駅長さんの話が機縁になって、この小文を書いてみる気になった。
二
十年前に、零下二十五度の低温実験室の中へ陛下の行幸を仰いだ頃は、陛下はお若々しく非常にお元気に拝せられた。当時の日記を開いてみると「お肥りにて御色よく光輝く許り也、万歳也」という一句が挿入されている。昭和十一年の秋といえば、「満州建国」から四年目、二・二六事件のあった年の秋のことである。一年後の蘆溝橋事件の勃発を目前にして、軍国日本がその極盛期にあった時代のこととて、御警護なども並大抵のことではなく、すべてが物々しい雰囲気につつまれていた。
低温室の中で人工雪の結晶を天覧に供するということが、いよいよ本極りになったのは、九月十日のことであった。しかしこの任務は、当時の国内情勢の下では、並大抵のことではなかった。
それは殆んど不可能に近い困難なことであった。というのは、雪の結晶の人工製作に初めて成功したのは、その年の三月のことであって、それは二年越しのいろいろな試みの末に、やっと偶然に一つの結晶が出来たにすぎなかったのである。その後実験はずっと続けて来ていたのであるが、現象が非常に不安定なために、実験は非常にむつかしく、なかなか思うようには進歩しない。何度もくり返しているうちには、思うような結晶も出来るのであるが、今この実験で、或る指定した形の結晶を、一回で間違いなく作れといわれても、それは到底出来ない相談であった。最初の偶然の成功以来、まだ六カ月も経っていないのであるから、無理もないことであった。
そういう時期に、十月八日に北大行幸がきまり、午後三時三十分から二分間陛下が低温室へおはいりになるから、ちょうどその時刻に結晶を作っておいてお目にかけるようにというお達しである。それをお引受けしたのであるから、後から考えてみれば、随分…