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のんしやらん記録
のんしゃらんきろく
作品ID59216
著者佐藤 春夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 佐藤春夫全集 第7巻」 臨川書店
1998(平成10)年9月10日
初出「改造 第一一巻第一号」改造社、1929(昭和4)年1月1日
入力者
校正者水底藻
公開 / 更新2020-04-09 / 2020-03-28
長さの目安約 48 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

慈善デー

 下層社会――どん底の世界。そんな言葉は今や単に抽象的な表現ではない。具象的なものとして文字どほりに実現された。地下三百メートルにある人間社会の最下層の住宅区(?)(これをしも住宅と呼べるならば!)である。
 彼はここに来てから幾日目かの朝を目ざめた。朝といふことがこんな世界でもわかるのが第一に不思議であつた。ラヂオは絶え間なしに明確に響いて来た。しかし、そんなものは生きるためには何の必要もない。欲しいものは空気だ。それから日光だ。それにくらべると食用瓦斯などはずつと後でもいい。(約十世紀ほど以前に、その内容はわかつてゐないが、「早過ぎた埋葬」といふ題で、これらの人間生活の悲惨を予言した文学者があつた。又同じ頃に「もつと光を!」と言ひながら死んだ詩人があつたと伝はつてゐる。多分彼等は賤民文学者の先駆者であつたに違ひない)日光はここでは到底その見込みはなかつたけれども、空気と食用瓦斯とは、最も小さい銀貨が一つづつありさへしたならば、それを自動メーターのなかへ投げ込んで買ふことも出来た。しかし彼は銀貨どころではない銅貨一つ無かつた。どうしたらそれが果して得られるものかさへも知らなかつた。彼はこの社会の生活の様式に就ては少しものみ込んでゐなかつた。ここへ投げ込まれてからそれほどまだ日が浅かつた。それに彼がどんなに声を出して見ても、彼の声は決して少しも響を立てなかつた。(ラヂオがこんなによく響いてゐるにもかかはらずこれは又、何と不思議な事である)さうして彼は何事をも人に質問する方法がなかつた。文字はここでは多分通用しないであらう。何人も知らないに決つてゐた。たとひ皆が知つてゐるにしたところが、何よりも第一にそれを書く可き、又読むべき光線がなかつた。
 欲しいのは空気と光とだ。もし彼が今までここで育つてゐたのだとすれば、彼は自づとここに慣れてゐたかも知れなかつたが、彼にとつては急激な変化であつた。かういふ生活をこれ以上にもう三十時間もつづけてゐたならば、きつと自然に死ぬだらうと彼は自覚した。彼は今更のやうに彼が生きてゐたあの秘密の世界がこのやうな社会生活にくらべると如何に幸福であつたかを痛感せずにはゐられないにつけても、その幸福な秘密の世界の創造者であつた人、さうして彼一箇にとつては恐らく彼が生涯の唯一の知人であるだらうところのあの老人は、その後どうなつただらうか。彼にはこれが心がかりであつた。彼がラヂオに耳を傾けてゐるのは、外にする事もなかつたからではあるが、一つにはもしやその老人のその後の消息が、そこから聞かれはしないかと思はれたからでもある。
 彼自身の声音が響を失つてゐるだけに、この空間に鳴り渡る声が彼には腹立しかつたが、ラヂオは引きりなしに鳴りひびいてゐた。昨日一日人間の世の中であつた事を残らず喋りつづけるつもりらしい。別に誰もそれを聞かうと企て…

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