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漁師の娘
りょうしのむすめ
著者徳冨 蘆花
文字遣い新字新仮名
底本 「梅一輪・湘南雑筆(抄)徳冨蘆花作品集 吉田正信編」 講談社文芸文庫、講談社
2008(平成20)年1月10日
初出「家庭雑誌」1897(明治30)年1月25日
入力者hitsuji
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2019-12-08 / 2019-11-24
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 常陸の国霞が浦の南に、浮島と云って、周囲三里の細長い島がある。
 二百あまりの家と云う家はずらり西側に並んで、向う岸との間は先ず隅田川位、おおいと呼べば応と答えて渡守が舟を出す位だが、東側は唯もう山と畠で持切って、それから向うへは波の上一里半、麻生天王崎の大松も、女扇の絵に画く子日の松位にしか見えない。
 此の浮島の東北の隅の葭蘆茫々と茂った真中に、たった一軒、古くから立って居る小屋がある。此れは漁師の万作が住家だ。夏から冬にかけては、人身よりも高い蘆が茂りに茂って、何処に家があるとも分らぬが、此あたりを通って居ると、蘆の中から突然に家鴨の声が聞えたり、赤黒い網がぬっと頭を出して居たり、または、一条の青烟の悠々と空に消えて行くのを見ることがある。併し其れよりも著しいしるしがある。其は此の蘆の中から湧いて来る歌の声――万作の娘お光が歌う歌であった。
「浮島名物、一に大根、二に鮒鰻、三にお光の歌……」などとよく島の若い者が歌う位、実にお光の歌と云ったら此のあたりに知らぬ者はない。秋の夕日が西に入って、紺色になった馬掛の[#挿絵]から水鳥が二羽三羽すうと金色の空を筑波の方へ飛んで、高浜麻生潮来の方角が一帯に薄紫になって、十六島の空に片破れ月がしょんぼりと出て、浮島の黄ろく枯れた蘆の根もとに紅色の水ゆらゆらと流るる時分、空より湧いて清い一と声、秋の夕の森とした空気を破って、断続の音波が忽ち高く忽ち低く蘆の一葉一葉を震わして、次第次第に霞が浦の水の上に響いて行く時は、わかさぎを漁して戻る島の荒し男も身震いして橈をとどめた。実に此の歌こそは浮島の名物であった。
 ああ、しかしながら其の歌は最早聞かれない。万作が小屋は今も浮島の蘆の中に立って居る。併し最早其の歌は聞かれない。日の入るまで立ち尽しても、最早其の歌は聞かれない。



 十四五年も前の事だ、白髪だらけの正直万作、其頃はまだ隻手で櫓柄あげおろす五十男で、漁もすれば作も少しはする。稼ぐに追付く貧乏もないが、貧乏は唯子のないのが是れ一つ。若い内は左もなけれど、五十の坂目かけては、是れほど心配はないもので、夫婦寝ざめにも此事を語り合い、朝夕筑波さまを拝んで居た。或日万作潮来へ網糸買いに往って、晩く帰って来たが、「それ土産だ」と懐から取出したのを見ると、当歳の美しい女の子だ。「どうしたんべい、此の孩児は」。「此れか、此れか、此れは……婆、筑波さまに御礼申しや」
 万作夫婦、夜は二人がからだを屏風にして隙もる風にもあてぬ。乳がないので、毎日粥を作って粥汁をのませる。歯が生え出すと、鯉鮒の肉をむしって、かけかかった歯に噛んでくくめる。「這えば立て、立てば歩めと親ごころ、吾身につもる老を忘れて」。万作夫婦老を忘れてお光を愛する。這う。立つ。歩む。独りで箸を持つ。それはそれは愛らしい。だがどうも変だ。万一唖じゃあるま…

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