えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
![]() しんきちょうしゃにっき しゅうい |
|
作品ID | 59299 |
---|---|
著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「荷風全集第四卷」 岩波書店 1964(昭和39)年8月12日 |
初出 | 「中央公論 第二十四年第十號」1909(明治42)年10月 |
入力者 | きりんの手紙 |
校正者 | 入江幹夫 |
公開 / 更新 | 2021-04-30 / 2021-03-27 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
二月五日 葉山の別邸に父を訪ねた。玄關からは上らずに柴折戸を潜つて庭へ這入ると、鼈甲の大きな老眼鏡をかけた父は白髯を撫でながら、縁側の日當りに腰をかけて唐本を讀んで居られたが、自分の姿を見ると、何より先に、去年來た時よりも庭の石に大分苔がついたであらうがと云はれた。庭はさして廣いと云ふではないが、歩むだけの小徑を殘して、一面に竹を植ゑ、彼方此方に大きな海岸の巖石を据ゑ立てゝ、其の傍には陶器の腰掛を竝べた。振向くと十疊の座敷は新しい疊の表ばかりが妙に廣々として白く光つて、其の片隅の床の間には、何處かの古碑から寫したらしい石摺の掛物がかゝつて居る。盆栽の梅が置いてあつて、其の傍には唐本の套が二ツばかり重ねてある。明け放した襖越しに見える次の間の書齋には、敷き延べた毛氈の上に唐紙の卷いたのが載せてあつた。縁側近くに置いた古銅の手あぶりから盛に香の薫りが流れて來る。
「東京はまだ寒いか。」と父は唐本の間に眼鏡をはさんで下に置いた。蟲の喰つた表紙に杜詩全集と書いたのが僅に讀まれた。
「風が吹くと夜なぞは隨分寒いです。」
「梅はまだ咲かないか。百花園なぞへは行つて見んか。」
「向島ですか。行きません。」
「日比谷の公園なぞへは大分若い人が行くやうだな。世の中は代つたものだ。昔は詩佛老人が東西南北客爭來といふ聯を書いた百花園も、どうやら維持が出來んで賣物になつとるさうだな。」
「日本の名所古跡は皆な破壞されて電車道になるんでせう。情けない國です。」
自分はさう云つて白髯の父を見た。百花園の問題は自分には別に何等の感動も與へないのであるが、自分は父に向つて日本の現在に滿足しない事を知らしめ、合點せしめて、其れから段々話を進ませて自分はいかにもして再度の外遊を企てたいと思つて居る、其の計畫に賛成の意を表はして貰ふ下心であつたのだ。一年でも二年でも、若し滯在費の支出を仰ぐ事が出來ないなら、一般の苦學生が取る樣な方法を敢てするも苦しくはない。自分は唯だ一言、老父を殘して外國に去つてもよいと云ふ承諾を得たいのである。然し父の話は一向に自分の思ふやうな壺に篏つて來ない。父は其の心の根柢に、功成り名遂げて身退くと云つたやうな大きい滿足を感じてゐると同時に、退いた後の世間に對しては、乃ち白眼を以て此れを看る、極めて冷靜な唯我主義の態度を取つて居る人だ。自分はいくら熱烈な雄辯を振つて、墳墓の地に住む事の不平を訴へた處で、相手の心を動す事は出來まいし、と云つて、此の儘無爲無能に父の財産を坐食して居た處で、自分の父は世間の親のやうに報恩と云ふ收穫をば急いで其の子から得やうと急りはしない。
「もう二三年行つて來たいですな。」
自分はどう云ふ返事を聞くかと思つて、突然に切り出して見た。父は更に驚く樣子もなく、縁側に置いた杜詩全集を再び膝の上に取上げたが別に讀むでもなく、
「西洋はそんなに面白い…