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女妖
じょよう
作品ID59305
副題01 前篇
01 ぜんぺん
著者江戸川 乱歩
文字遣い新字新仮名
底本 「江戸川乱歩全集 第16巻 透明怪人」 光文社文庫、光文社
2004(平成16)年4月20日
初出「探偵実話」世文社、1954(昭和29)年1月
入力者きゅうり
校正者入江幹夫
公開 / 更新2022-03-28 / 2022-02-25
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 いつ、どこで、どうして、死ぬかということが、ただ一つ残っている問題だった。
 青山浩一は、もと浜離宮であった公園の、海に面する芝生に腰をおろして、向うに停泊している汽船を、ボンヤリと眺めていた。
 うしろには、まっ赤な巨大な太陽があった。あたりは見る見る夕暮の色を帯びて行った。ウイーク・デイのせいか、ときたま若い二人づれが通りかかるほかには、まったく人影がなかった。
 伯父のへそくりを盗み出した十万円は、二十日間の旅で遣いはたした。ポケットには、辛うじて今夜の宿賃に足りるほどの金が残っているばかりだ。
 温泉から温泉へと泊り歩いて、二十一歳の彼にやれることは、なんでもやって見たが、どれもこれも、今になって考えると、取るに足るものは一つもなかった。あの山、この谷、あの女、この女、ああつまらない、生きるに甲斐なき世界。
 伯父の家へは二度と帰れない。勤め先へ帰るのもいやだ。自転車商会のゴミゴミした事務机と、その前に立ちならんでいる汚れた帳簿を思いだすだけでも、吐きけをもよおした。
 暮れて行く海と空を、うつろに眺めていると、またあの幻が浮かんで来た。空いっぱいの裸の女。向うの汽船のマストの上の、白い雲の中に漂っている。西洋の名画の聖母像と似ているが、どこかちがう。もっと華やかでなまめかしい。情慾に光り輝いている。浩一はあの美しい女に呑まれたいと思った。鯨に呑まれるように、腹の中へ呑まれたいと思った。
 ほんとうをいうと、彼は少年時代から、この幻想に憑かれていた。夢にもよく見た。中学校の集団旅行で、奈良の大仏を見たときには、恍惚として目がくらみそうになった。鎌倉の大仏はもっと実感的だった。あの体内へはいった時の気持が忘れられないで、ただそれだけのために、三度も四度も鎌倉へ行ったほどだ。あの胎内に住んでいられたら、どんなによかろうと思った。
「いよいよ、せっぱつまったなあ。自殺のほかはない」
 浩一は、口に出して呟いて見た。温泉めぐりをしているあいだも、白粉の濃い丸まっちい女を抱いているときにも、彼は絶えず自殺のことを考えていた。その想念には何か甘い味があった。
 立ち上がって、芝生のはずれの崕はなまで行って、じっと前の青黒い海を見つめていたが、飛びこむ気にはなれなかった。いよいよの土壇場までには、まだ少しあいだがあると思った。その一寸のばしが、目覚し時計の音を聞いてから、温かい蒲団の中にもぐっているように、何とも云えず物憂く、こころよかった。
 もう海と空の見さかいがつかぬほど、暗くなっていた。近く遠くの汽船たちのマストの上の燈火が、キラキラと美しくきらめき出した。例のこの世にたった一人ぼっちという孤独感が、痛くなるほど迫って来た。
 けさ上野駅について、浅草と有楽町で、映画を二つ見た。映画館の群衆は、自分とはまったくちがった別世界の生きものであった。それ…

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