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赤い駱駝
あかいらくだ
作品ID59356
著者梅崎 春生
文字遣い新字新仮名
底本 「戦後短篇小説選 1」 岩波書店
2000(平成12)年1月17日
初出「世界」1948(昭和23)年10月号
入力者hitsuji
校正者noriko saito
公開 / 更新2020-07-19 / 2020-06-29
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 まだ部隊にいた時分、潜水艦勤務を五年もやったという古参の特務中尉がいて、それがおれたちにときどき話を聞かせてくれたが、そのなかでこんな話が今でも深く頭にのこっている。それは長時間海の底にもぐっていて、いよいよ浮上しようとする時の話なんだ。なにしろ潜水艦というふねは、水にもぐっている関係上、空気の補給がぜんぜん絶たれているだろう。空気はよごれ放題によごれ、吸ってもはいてもねとねとと息苦しいだけで、みんな顔には出さないけれども、死にかかった金魚のように、新らしい空気にかつえているわけさ。だから浮上ということになると、皆わくわくしてフタのあく一瞬を待っている。海水を押しわけて、ぐっと浮上する。フタがぱっと開かれると、潮の香をふくんだ新鮮な空気が、さあっと降るようにハッチから流れこんでくるのだ。その時の話なんだが。
「ぐっと吸いこんで、どんなにか美味いだろうと思うだろ。ところがそうじゃないんだ。吸いこんだとたんに、げっと嘔気がこみあげて、油汗が流れるぞ。そりゃ手荒くいやな気持だぜ。てんで咽喉が新しい空気をうけつけないんだ。一分間ぐらいそれが続く。やっと咽喉や肺が慣れて、それからほんとに、空気というやつは美味いなあ、と判ってくるんだ。こいつはやはり経験した者じゃなければ、この味は判らないだろ」
 このちょび鬚を立てた特務中尉は、おれたちの顔を見廻しながら、すこしばかり得意そうな表情でこの話をむすんだ。この中尉は割に気のいい男で、おれは好きだった。中学校に行っている子供がいるという、邪気のない男だった。こんなのは特務士官にはめずらしい。ふつう海軍の特務士官は、みょうにひねくれたところがあって、おれたち一夜漬けの予備士官にへんな反感をもっていたもんだ。考えてみると、それも無理ないやね。こちらは一年やそこらの訓練だけで、実際にはろくな仕事も出来やしないのに、けっこう一人前の士官づらをしているんだ。十年も十五年もこの道でたたきあげた彼等にすれば、どんな点からも、腹が立って仕方がないことばかりだろう。けちをつけたい気持もわかるよ。しかしおれは何も好きで海軍に入った訳でもなし、どのみち消耗品として死なねばならぬことは判っていたんだから、あまり気にもしなかった。つまりおれたちは小姑の多い家にきた嫁みたいなものよ。本気でいじめる気持がなくても、自然とあらさがしみたいになるんだ。だからおれたちの中でも、一番あらの多い奴がつらくあたられたんだ。その一番つらくあたられたのが、二見というおれと同期の予備少尉だったんだ。この二見少尉の話を、今からしようと思う。
 二見という男は、一言でいえば、全然軍人に適さない男だったんだ。軍人としての条件を、あれほど欠除した男もめずらしいだろう。その点で、同期の予備少尉にも、二見を馬鹿にしてるのが多かった位だ。しかし、これは言っておかねばならぬが、また二見…

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