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悲しめる顔
かなしめるかお
作品ID59357
著者横光 利一
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 横光利一全集 第一卷」 河出書房新社
1981(昭和56)年6月30日
初出「街 第一號」1921(大正10)年6月1日
入力者野崎芹香
校正者岡村和彦
公開 / 更新2020-03-17 / 2020-03-03
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 京の娘は美しいとしきりに従弟が賞めた。それに帰るとき、
「此の雨があがると祇園の桜も宜しおすえ。」
 そんなことを云つたので猶金六は京都へ行つてみたくなつた。
 縁側で彼の義兄が官服を着たまゝ魚釣り用の浮きを拵へてゐる。金六は義兄の傍に蹲んだ。
 義兄はあら削りの浮きを一寸掌の上に載せてみて、
「子モロコを食はしてやるぞ、五六十疋も釣つて来てなア。」と云つた。
「おいしいのですか。」
「うまいの何んのつて、東京にゐちや金さんらにや食へんわ。」
 それも一度食べたいと彼は思つた。ふと眼を庭のぎぼしの芽に移した。芽は刺さつたやうに筒形をして黒い土の上から二寸程延びてゐた。東京から此処へ来て初めて庭の隅でその生々とした芽を捜しあてたとき、毎日これを見ようと思つた。それに三日も忘れてゐる。彼は三日分のを取り戻さうと云ふ気になると立ち上つた。すると身体の奥底で何か融けてずる/\崩れ出すやうに感じた。毎年春さきになると彼はこんなのを感じる。それが近頃殊にひどかつた。危険になつてゐるなと彼は思つた。そのまゝ暫く両手を帯へ差して少し前へ傾くやうな姿勢をとつて立つてゐると、足を踏み変へなければ身体が前へ自然にのめつて倒れさうに思はれた。
「これやをかしい。どうしても妻が欲しいんだ。」
 そんなことを思ふと、彼は妻でなくとも好いせめて恋人なり一人欲しいと思つた。彼はまだ恋を知らない。しかし、こんなものだらう位は知つてゐた。
「ほんまによう降るな、モロコは沖へいつとるであかんぞ、これや。」と義兄は云つた。
「雨があがるといゝんですか。」
「さうやな、磯へ餌さが集るで来よるわけやな。」
 何ぜ雨が降りやめば餌が磯へ集るのか彼は考へてみた。分らなかつた。
 奥の間で娘の三重子の眠つてゐる暇を盗んで縫物をしてゐる金六の姉が、
「義兄さんたら、金さんが来たら酢モロコを食べさすのやつて、こなひだからやい/\言うてやはるのえ。そんな物食べたうないわなア金さん?」
 と声をひそめるやうにして言つた。
「何アに、うまいのなんのつて。」
 と義兄が云ふと、
「アレ、自分が好きやつたら他人まで好きやと思うて。」と姉は笑つた。
「きまつてら、どうれ。」
 義兄は立ち上ると膝に溜つた削り屑をぽん/\と音高く叩いた。姉は顔を顰めた。
「そんな大きな音さして、三重子が起きますやないの。」
「お前はなんぢや。大つきな声出して。」
 金六の義兄は内庭へ廻つて行つた。姉も立つてその方へ廻つた。
 金六は蹲み込むと庭の芽を見乍ら、矢張り自分を一番幸福にするのは恋だと思つた。しかし、何故に公平な分け前物である筈のその幸福が、自分を許り避けるのか。これは機会がなかつたからだ。世の中の総ての幸福者は適宜に此の機会を捕へて放さなかつた。いや何よりも自分は臆病なんだ、これが一番いけない。さう思ふと、これまで数多くの機会が間…

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