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身上話
みのうえばなし
作品ID59401
著者森 鴎外
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鴎外全集 第七卷」 岩波書店
1972(昭和47)年5月22日
初出「新潮 第十三卷第五號」1910(明治43)年11月1日
入力者柳太郎
校正者shiro
公開 / 更新2020-02-17 / 2020-01-24
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「御勉強。」
 障子の外から、小聲で云ふのである。
「誰だ。音をさせないで梯を登つて、廊下を歩いて來るなんて、怪しい奴だな。」
「わたくし。」
 障子が二三寸開いて、貧血な顏の切目の長い目が覗く。微笑んでゐる口の薄赤い唇の奧から、眞つ白い細く揃つた齒がかがやく。
「なんだ。誰かと思つたら、花か。もう手紙の代筆は眞平だ。」
「あら。いくらの事だつて、毎日手紙を出しはしませんわ。」
「毎日出すとも、一時間に一本づつ出すともするが好い。己はもう書かないと云ふのだ。」
「ひどい事を仰やるのね。たつた一遍しきや書いて下さらない癖に。」
「一遍で澤山だ。」
「そんなにお厭なの。」
「厭も好きもないのだ。まあ、這入つて障子をしめて貰ひたいものだな。こなひだぢゆうのやうに暑い時は好いが、もうそろそろ寒くなつたのに、そこから覗いてゐられては協はない。」
「さあ、這入りました。」
 ついと這入つて、片膝衝いて障子を締める。
 輪の太い銀杏返しに、光澤消しの銀の丈長の根掛をして、翡翠の釵を插してゐる。素肌に着たセルの横縞は背が高いからの好みか。帶は紺の唐繻子と縞のお召との腹合せである。
 浪の音がする。涼しくはなつても、まだ夏なので、暮れてから暫くは、雨戸も締めてないのである。花は机の向うに來て据わつた。
「又電氣を低くして入らつしやるのね。」
「この儘にして置けば好いのに、毎日天井の處まで弔るし上げるもんだから、日が暮れれば卸さなくてはならない。面倒で爲樣がありやあしない。」
「はいはい。さやうならあしたからは足で蹴爪衝くやうな處に卸して置きます。」
「蹴爪衝きやあそそつかしいのだ。泊つてゐる奴が皆なまけものだから、電燈といふものは天井に弔るし上げて置くものだと思つてゐるのだ。卸さなくちやあ、横文字の本なんぞは讀まりやあしない。」
「えゝえゝ。お客樣もなまけもので、わたくし共もなまけものでございますよ。」
「なまけものだとも。辻村に遣る手紙の事ばかし考へてゐるのだ。」
「おや。名前なんぞを覺えておしまひなすつて、まあ、いやだ。」
「覺えなくつて。なんでも覺える。お前なんぞには分からないが、博聞彊記といふのだ。」
「英語なんぞおよしなさいよ。ねえ、あなた、けふは遣りませんけど、又そのうち書いて下さいますでせうね。男の手でなくちやあ、遣られないのですから。」
「いやだ。」
「なぜでせう。」
 右の手の指尖で、左の袂の尖を撮んで、首を右に傾けて、ちよいと圭一の顏を覗く。かういふ目の要求を拒絶するのは、なかなか容易な事ではない。
「なぜだといふのか。書かない理由が聞きたいといふのだな。うん。言つて聞せよう。先づ僕の書いた手紙が辻村辰五郎といふ奴、失敬、辻村辰五郎といふ先生の處へ行くのだな。そこでその辰五郎先生がそれを讀む。讀むと、何か考へるのだな。僕は先生を知らないから、何を考へるか分…

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