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富士登山
ふじとざん
著者高浜 虚子
文字遣い新字新仮名
底本 「紀行とエッセーで読む 作家の山旅」 ヤマケイ文庫、山と渓谷社
2017(平成29)年3月1日
初出「ホトトギス 第十九卷第十二號」1916(大正5)年9月1日
入力者富田晶子
校正者雪森
公開 / 更新2020-02-22 / 2020-01-24
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私が富士山に登ったのは十五六年前のことである。平々凡々の陸行であったので特に書き記すほどのこともない。殊に当時ホトトギス誌上には碧梧桐君が其記事を書いたので私は何も書かなかった。今書くとなるともう大方は忘れてしまっているので、いよいよ何も書くことはないわけであるが、それでも思い出し思い出し概略を記して見ることにする。
 十五六年前の富士登山は、今日ほど普通なものではなかった。その前年中村不折君が末永鉄巌君などと富士に登って来て盛んにわれ等を羨まがらせたので、負けぬ気になって、碧梧桐君や岩田鳴球君や菅能國手や其他数人を語らって出掛けたのは七月の末であったか、八月になってであったか、それも忘れてしまった。碧梧桐君は其頃から健脚をもって任じて居たので、もとより問題にならなかったが、「虚子に果して頂上まで登る勇気があるかどうか。」ということが子規居士枕頭の話題になっていた。殊に居士は其病弱の躯から推して到底私には頂上まで登る勇気はないものの如く推定したらしい口吻であった。「まア行って御覧や。」などと憐れむような口吻で居士は私に言った。
 御殿場の御殿場館とか言った宿に一夜を明かして夜半の三時頃から登山することになった。宿屋の光景などははっきり覚えて居らぬが、其前夜御殿場の町を歩いた時の一種の心持はまだ忘れることが出来ぬ。それは淋しい夜の町というのに過ぎなかったが、爪先上りになっている其町の前方に当って黒い大きな巨人の如きものが峙っている。それが明日登る富士山であるということが何となく心を引きしめた。果して頂上まで登れるのであろうかという疑問は私自身にもあった。そう思って見上げた黒い巨人は私を威圧するように聳えていた。空には月がなくって星ばかりであった。盛夏の候に拘わらず単衣の肌は涼しすぎる位であった。われ等は其夜の町で金剛杖や草鞋などを買って来たように記憶する。
 其夜は早く寝て私は熟睡した。それでも二時過に起きるのは苦しかった。仕度を終えて表に出たのは三時頃であった。女馬子に曳かれた一隊の馬が暗い軒下にわれ等を待っていた。手当り次第の馬に跨ると、提灯を持った女馬子は脊の低い、菅笠ばかりが目立って大きく見える後ろ姿を見せながら、馬の口をとって先に立った。馬はおとなしくとぼとぼと歩いた。乗馬の経験のない私は、只謹んで馬の脊に跨っていた。
 前夜と変らぬ黒い巨人は矢張り目の前にあった。
 御殿場の町を通り抜けると馬はいつか森林の中に這入って、提灯の光に見える女馬子の脊中と馬の顔や首のあたりの他は殆んど何ものも目に入らなかった。私は只乱雑に響く自分の馬や他の馬の足音を聞きながら、夜半の森林の中を通りつつあった。
 われ等が曙の色を認めたのは、もう森林を通りぬけて桔梗や撫子や女郎花の咲き誇っている平原の中を行きつつある時であった。御殿場あたりなどからみると、もう余程登って…

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