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若き日の室生犀星
わかきひのむろおさいせい |
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作品ID | 59441 |
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著者 | 佐藤 春夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 佐藤春夫全集 第26巻」 臨川書店 2000(平成12)年9月10日 |
初出 | 「群像 第一七巻第五号五月特大号」講談社、1962(昭和37)年5月1日 |
入力者 | 朱 |
校正者 | 持田和踏 |
公開 / 更新 | 2022-08-01 / 2022-07-27 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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わたくしは明治四十二年、十九歳の春上京してのち、明治末、大正はじめの数年間を、なまけ学生として、本郷の師匠の家の周囲を転々としながら三田に通学してゐた。
そのころ二十一二の室生犀星はどこに棲んでゐたものか、毎夜のやうに根津権現うらあたりの酒場に出没して、生来の蛮勇を揮つてゐたらしい。
わたくしはもと下戸だから酒場には出入しないから、現場を見たことはない、いつも聞きつたへばかりであつた。
当時のわたくしの友人に、ともに新詩社の同人として、ともに作歌を学んでゐた美術学校学生で菽泉と号した広川松五郎がゐた。彼は同じく歌人で、たしか室生とは同郷の尾山篤二郎と親交があつたらしく尾山は時々広川の下宿へも顔を出してゐた。わたくしは尾山が広川に語つてゐるところによつて室生の噂を聞いたのである。広川は室生とも面識はあつた様子である。
当時の室生の周囲にはまだ萩原朔太郎は現はれず、その郷里、北陸地方の人々だけが室生の友人であつたやうに見える。藤沢清造は能登の人で、同じくそのころの室生の親しい友人のひとりであつた。
藤沢は何か地方の演劇関係の家の人でもあつたらしく、さういふ方面の消息に通じ後年には演劇記者のやうなものから文学雑誌の編集にも携はり、且つ青年時代からの志をも達して後に長編私小説「根津権現裏」といふ一作もあつたが、戦時中、栄養失調のため芝公園内で行路病者として死した不遇文士である。
今にして考へると、彼の小説はその郷土的関係か、それとも青年時代の交友による双方の影響か、室生文学とどこか一脈相通ずるものもあつたやうな気がする。
藤沢は心のごく素直な男にも似ず、この手の人によくある型で、口に毒を持つた男で、親友室生の噂を持ち出すと、おもしろをかしく語り終つた末には、ピリオッドのやうに必ず
「あのダラが!」
との一語で結んだものであつた。これは能登の方言であほ鱈の前半を略したものでもあつたらうか。それにしても決して悪意ではなく、むしろ親しみを示すつもりのものであつたらしい。彼の持つて来る室生の噂は、きつと多少の潤色や誇張があつたに相違ない。あまりに面白すぎて少々信用できないものでもあるし、いつもエロばなしだからここでは割愛して置くとしよう。
この藤沢は当時ではなく後年、わが先師長江邸へもしばしば出入して室生の噂をしたものであつた。若き日のことから当時もうそろそろ第一流の詩人になりはじめた頃までの現状をである。先師長江は人も知る気むづかしい批評家であるが、さすがに慧眼で、まだすつかり世間の認めないころから室生を尊重してゐたから、藤沢もよく室生のうはさをしたものであつた。
藤沢も先師のところでは憚つてゐたが、われわれにはいつも室生のエロばなしを伝へたものであつた。藤沢の話をつくり話のやうに面白いと警戒して聞いたものだが、後年の室生の作風から見ると藤沢のはなし…