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モンテーニュ随想録
モンテーニュずいそうろく
副題01 はしがきに代えて――モンテーニュとの六十年――
01 はしがきにかえて――モンテーニュとのろくじゅうねん――
原題ESSAIS DE MONTAIGNE
著者関根 秀雄
文字遣い新字新仮名
底本 「モンテーニュ随想録」 国書刊行会
2014(平成26)年2月28日
初出「朝日新聞 夕刊」1983(昭和58)年2月21日
入力者戸部松実
校正者大久保ゆう、Juki、雪森、富田晶子
公開 / 更新2019-01-02 / 2018-12-25
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 初めてモンテーニュの名を知ったのは大正五年東大仏文研究室におけるエック先生の講義によってであった。聴講者は鈴木信太郎、須川弥作、岸田國士、井汲清治、それに私の五人、当時「仏文はじまって以来の盛況」と言いはやされた。前年は新入生皆無、三年生に山本直文唯一人という時代のことである。私はその名を知っただけでボンヤリしていたが、鈴木君の方は当時刊行中の〈ボルドー市版エセー〉をいつの間にか手に入れ、卒論に「モンテーニュの懐疑思想」を書いてあっぱれ副手となった。
 私がモンテーニュにのめり込んだのは何年だったかはっきりしないが、勉強のつもりでアルカン版「エセー」を取り寄せ翻訳にかかったのは大正最後の年だったと記憶するから、私とモンテーニュとの付き合いは今や六十年になんなんとする。だがその間に、「仏蘭西文学史」や「仏語動詞時法考」も書いたし、ラ・ブリュイエールの「人さまざま」やブリア・サヴァランの「美味礼賛」の翻訳もしているから、八十の年に公にした「モンテーニュとその時代」のあとがきに「一生モンテーニュ以外には眼もくれなかった一徹な老人」などと自ら定義したのは、いささか言いすぎたと後悔している。
 事実、昭和十年「モンテーニュ随想録」初版以来、二十七年、三十二年、五十七年と、重版の都度全面的に改修をしたし、ほとんど各章に解説や評注を書き加えもしたし、更に五十一年には「モンテーニュとその時代」、五十五年には「モンテーニュ逍遙」と書き続けずにはいられなかったのであるから、ちょうどそのころ「源氏物語」の仏訳者シフェールさんに会った時も、ついまた私は「モンテーニュのほかはさっぱり不案内で」と言ってしまった。だがそこはさすがにシフェールさん「わたしも源氏以外は何も知りません」と答えてくれた。
 さて「随想録」初版のはしがきに私はこう書いている。「私が此本の翻訳に志したのはもっぱら自身自家のためであった。生れつき病弱で神経のかぼそい私自身のために、また不治の病患を背負っていわば人生の旅路に行きなやんでいる家族の一人のために、幸福と長寿の道を学ぼうとしたのがそもそもの始まりであった」と。そのひとりはわが稿の完成を待たずに昇天してしまったが、残された私の方は思わざる長寿をめぐまれて、ここにこうして、至極幸福に生きている。ひとえにこれモンテーニュのお陰と言うほかはない。
 今ここに有名な「モンテーニュ全集」の編者アルマンゴー医博がいあわせたら「そうだ、それにちがいない」と太鼓判を押してくれただろう。この人は十歳にしてモンテーニュを知り、一九一三年にモンテーニュ学会を創立し、晩年には日本のトゥーリストたちもおそらくご覧になったと思う、あのソルボンヌ前広場にあるモンテーニュ像をパリ市に寄贈した上、九十二歳の高齢で大往生をとげた不朽のモンテーニュ学者であるが、その専門だった衛生学の学会誌に「中…

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