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玉手箱
たまてばこ
原題A Golden Argosy
著者
翻訳者奥 増夫
文字遣い新字新仮名
初出1886年
入力者奥増夫
校正者
公開 / 更新2019-01-09 / 2018-12-23
長さの目安約 126 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

第一章
 夜十一時。近くのチャイム音が鳴りやまないうちに、ロンドンの悪名高い通り雨が五分ほどザーッと叩きつけ、あたかも涸れ果てたかのように霧雨に変わった。
 風に揺れるガス灯の明かりが舗道にゆらゆら、敷石にぼーっと落ち、ほ影が強烈なアーク灯の輝きで消える、そこがコベント・ガーデンだ。
 靄が立ち込めるロング・エーカーの青白い光は弱く、向かい側のラッセル・ストリートは一層暗い。
 タビストック・ストリート沿いの一軒の酒屋、ド派手な正面に明かりが輝き、怪しく光るガラス窓があふれんばかりの笑顔を振りまき、あくどい客引きをしているように見える。
[#挿絵]
 店の扉にたむろする物欲しげな浮浪者の群れ、そこから数メートル離れて、一人の女がたたずんでいた。近くに同性の乞食がほかにもいるが、その類じゃなく、ひどいぼろ服を身にまとっているけど、一見して仲間じゃないと分かる。
 若い、おそらく二十五歳を超えていないだろう女の顔には深い悩みの影があった。
 半ば不機嫌に、半ば物欲しそうに、飾り棚の窓をじっと見入る女の姿は、街灯の強烈な光に一段と浮びあがり、高貴な顔立ちは、みすぼらしい衣装と苦労の表情で痛々しいほど対照的であった。
 威厳があり、貧しい身なりに、気高い雰囲気を漂わせ、心労をじっと抱え、ポケットには二ペンスしか持っていなかった。
 もし目の前の貧乏人がこんなわずかな金しか持ってないと分かれば、女の状況が推し図れようというもの。一人ぼっちで、友達もなく、無一文で、人口四百万のロンドンで、まさしく惨めのどん底だ。
 おそらく女もそう思い、とっさに決めたのだろう。店の扉をしっかと押し、騒々しい酒場へはいっていった。
 疑われるのではないかと半ば覚悟していたが、ああ、こんな所へ集まる者どもは余りにも世過ぎの苦労をしょっているので、誰も驚かない。
 女がコーディアル酒を注文するとバーテンダーは当然とばかり、女のなけなしの銅貨を二枚受け取った。もしこれが最後の金だと知れば、きっと哀憐の情が湧いたことだろう。あいにくバーテンダーにそんな想像力はないし、ちょくちょくあることだが、ここで受け取る最後のはした金というのは、ヒトと貧乏人を隔てる湾のかけ橋だったりする。
 女は止まり木に腰掛け、疲れた手足を休め、酒でカラ元気をつけながら、ぼんやり思ったのは、これで運命との戦いが終わり、一切何も残らず、将来の困難からすぐ抜けられる、つまり橋から飛び降りるということだ。
 ゆっくりと瞑想にふけりながら、大コップ酒をちびちび飲みつつ、ふと妙な感じがして、どうしてこんな古いコップが今まで割れなかったんだろう。
 だんだん、しかし確実に酒が減っていき、遂に残り数滴となった。そして時が来た。ぐいと飲み干すと両肩に小さなショールをかけて、再びロンドンの夜に舞い戻って行った。
 ほんの夜十一時半、通りは人…

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