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十時五十分の急行
じゅうじごじゅっぷんのきゅうこう
著者ルヴェル モーリス
翻訳者田中 早苗
文字遣い新字新仮名
底本 「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日
初出「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日
入力者ノワール
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2020-04-15 / 2020-03-31
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「今日お発ちだそうですね、ムッシュウ」
 と跛の男が私に問いかけた。
「ああ、月曜の朝にマルセイユへついていないと、都合がわるいからね。十時五十分の急行でリオン停車場から発とうと思っている。あの急行がいいよ。だが鉄道のことは君の方が詳しいわけなんだね、君は病気になる前までP・L・M(巴里・リオン・地中海鉄道会社)に勤ていたそうだから」
 すると彼は眼を閉じたが、急に顔が蒼ざめて来て、
「ええ、知っていますとも。知り過ぎるほど知っています」
 眼瞼の下に涙さえうかべて、ちょっと黙りこんでから附け加えた。
「あの列車のことなら、私以上に詳しい者がありますまい」
 もうその職業にかえれなくなったことを悲観しているらしいので、私は思わず同情していった。
「面白い仕事だったろうね。何しろ頭の要る結構な仕事だ」
 彼は身ぶるいした。不随になったその体がはげしく引きつり、そして眼には或る恐怖の色をうかべながら、
「大違いですよ、ムッシュウ。結構どころか、恐ろしい生命がけの仕事なんです。思いだしてさえ慄然として魘されるくらいです。余計なおせっかいをするようだが、あの列車だけはお止めなさい。他の列車ならどれにお乗りになろうと介意いませんがね、あの十時五十分の急行だけはお止めなさい」
「何故」私は笑いながらいった。「君は迷信家なんだね」
「迷信じゃありませんが、千八百九十四年の七月二十四日の大惨事のときに、私は恰度あの列車を運転していたのです。そのお話をするとよくお解りになりましょう。
 その日、私達は定刻にリオン停車場を発て、約三時間駛りました。馬鹿に熱くるしい日で、速力のはやいにも拘らず、汽鑵台へ来る風が息づまるようでした。それに大気が妙に重く、蒸暑くて、今にもあらしがやって来そうな気勢でした。
 空が、突然電燈を消したように真暗になって、星影一つありませんでした。月も隠れて、ときどき凄い稲妻がぴかりと来たかと思うと、そのあとがインキを流したような真の闇です。
 私は火夫へ声をかけました。
『どうしたって逃れっこはないね。今に豪雨が来るぜ』
『早く降ればいい。こう蒸されちゃ遣りきれたもんじゃない。だがこんな晩には、シグナルをしっかり睨んでいないと危いですよ』
『大丈夫だ、はっきり見えるよ』
 雷鳴がひどいので、車輪の響きも排汽の音も聞えません。雨はまだ降らないけれど、あらしがだんだん近づいていました。いや、私達は真直にあらしの方へ突進しているのです。まるで、あらしを追かけている恰好でした。
 狂人のように突駛しっている鋼鉄の怪物に乗って、大あらしの真只中へ投げこまれたとき、少しは変な気がしたって、決して臆病ということは出来ますまい。
 直ぐ眼の前で、稲妻が大地をつん裂いたかと思うと、雷鳴ががらがらっとやって来ました。それが続けざまで、余りに凄いものだから、私は思わず眼をつぶ…

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