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無駄骨
むだぼね |
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作品ID | 59496 |
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著者 | ルヴェル モーリス Ⓦ |
翻訳者 | 田中 早苗 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社 2003(平成15)年2月14日 |
初出 | 「新青年」1923(大正12)年8月号 |
入力者 | ノワール |
校正者 | 栗田美恵子 |
公開 / 更新 | 2021-01-17 / 2020-12-27 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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そのジャン・ゴオテという男は、見たところ、ちっとも危険な犯罪者らしくなかった。
年齢はちょっと見当がつかないが、弱そうな小柄の青年で、何だか子供の時分から病身で悩んで来たという風であった。ときどきそそっかしく鼻へあてる近眼鏡の蔭にさまよう眼付なんか、ほんとうに静かで柔和だった。叱られて怖々している子供といった方が適当なくらいで、これが人殺しをした青年とはどうしても思えなかった。
ところが彼は実際、人殺しをやったのである。そして犯行後数時間目に逮げられたのだが、警官から肩を押えられると同時に、何等悪びれた風もなく、自分が犯人であることをまっすぐに自白してしまって、しかしそれ以来、頑固に口を噤んでいたのであった。
「おい」予審判事が或る日彼を詰問した。「お前は被害者と全然無関係で、また、その家から何も盗まぬと云ったな。そんなら何のために彼を殺害したのか」
「別段に理由はありません」
「いや何か理由があっただろう。やたらに他人の家へ入りこんで人を殺すということは出来るものでない。いったい、何のためにあんなことをやったのか」
「目的もなくやっつけたのです」
「いや、あの男は、お前に対して何か不都合なことでもしたんだろう」
青年はもじもじして眼を伏せて、曖昧な身振りをしながら、
「左様じゃないんです」
口の中で呟いていたが、何を思ったのか急に調子をかえて、
「ええ実は、出鱈目にやったことではなくて、理由があったのですが、最初に否定したものですから、つい云いそびれてしまいました。そればかりでなく、有態に申しあげにくい事情がありましたので――
実は、私は私生児でございます。母は貧苦のために非常な苦労をして私を育ててくれました。あの時分のことを思いますとほんとうに惨めなもので、私たち母子は、涙の乾く隙とてもありませんでした。学校へ行くと皆が私を『父なし児』だといって弄りものにします。私はわけが解りませんでしたが家へ帰って母に訊きますと、母は両手を顔にあてて泣くものですから、子供心にもそれはきっと悲しいことにちがいないと思って、それっきり父なし児という言葉は口にしませんでした。
母は身の上話や愚痴っぽいことは、ついぞ一度も云ったことがなく、黙って死んで行きました。母が亡くなったとき、私は十四でございました。
たった十四で、私は独りぽっちになったのです。親戚は無論のこと、友達というものもありません。そんなわけで、私は自分で生活を立てる前から、もう世の中というものが厭になっていました。
しかし実をいうと、初めはそれほど辛くもありませんでした。私は或る家に奉公に出まして、食べものも寝床も与えられ、ときどきは着ぶるしの着物なども貰っていました。
それから六年経って、二十歳の時から一本立ちで生活することになりますと、初めて貧乏の辛さが解って来ました。私は或る問屋の記…