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海潮の響
かいちょうのひびき
作品ID59500
著者吉江 喬松
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆56 海」 作品社
1987(昭和62)年6月25日
入力者浦山敦子
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-09-05 / 2022-08-27
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 毎朝二階の窓から東南の空を見ると、白く光る雲が遠い杉木立の上にもや/\湧き出てゐるのであつた。日の光はその雲の頂を照らして、いかにも輝かしいが、雲の下層は一様に平かに途切れて、下からは青色空が光を浮ばせ、青い光を照り返してゐる。
 あの雲の下あたりが、丁度東京湾の波の上であるまいか。房州通ひの船は、あの雲を仰ぎ見ながら走つて行くのではあるまいか。そんな事を思つてゐると、四五日前、横浜埠頭で送つたアメリカ行の友人の船が見えて来る。白く塗つた天洋丸の波を蹴立てゝ行く姿が見える。大うねりを立てゝ寄せて来る大洋の波、ゆつたりとした眺め、爽かな洋上の空気、それを吸ひながら甲板上を歩いてゐる友人の得意の姿、――空想は空想を追うて湧く。
 毎朝その白い雲を見る度に海を思ふやうになつた。風が少し強く、雲の下層が乱れて見える時は海の波が音高く、雲の下でまろんでゐる姿を思ひ浮べた。日が強く照る時、雲の姿を胸に抱き光と波と雲と皆一様に入り乱れて、照り返してゐる華かな白銀のやうな海を思つた。
 東南の空! いつもいつも、私が憧れてゐる方向だ。海は私の思を引いて、その方向に横はつてゐる。高照る雲、白銀の海、不断の楽の音を奏してゐる波、その雲を見る毎に私の胸には波の音が聞えて来た。
 曇り日か雨の日で、この雲の姿が仰がれない時は、寂しくて耐らない。頭も重くなる、やるせない思がしきりに起つて来る。気むづかしさうに波が焦立つて、その上を渉つて行くものには、何物にでも白い歯を剥き出して、噛みつくやうに跳りかゝる様も見える。乱れた波の旋律、狂ほしい波浪の叫び、やがて灰色雲が一層低く垂れ下つて来ると、波と雲とが噛み合ひを初めて、その間を行く船は、双方から噛み砕かれるのではあるまいかと思はれて来る。
 が、この白く高く照り渡る雲の見ゆるのは初夏の最初の徴候で、それからの空は色濃く重々しくなつて、都会の上に臨むやうになる。柔かに気高く光つてゐた雲が、強く厚く、一層大きく高く湧き上るが、下層はいつも同じに平らかに切れて、青空は同じ光に輝いてゐる。波の響! いつもと同じく雲の下層は揺れ動いてゐるやうに思はれる。
 夏の夜天が次第に更けて、それも夏長けて九月の初旬頃になると、紫紺の空に星が数をまして来る。昼間見てゐる雲は夜になると何処へか消えて、たゞ小さな形ばかりの一片の雲がその後にたゆたつてゐる。其頃になると、いつも私の胸に浮んで来る詩の句がある。
 ――「夜深海濤三万里」
 いかにも大きな豪壮な趣を味はせる句だ。夏の夜更けに此句を口にしながら空を仰いでゐるとどう/\といふ波の響が、紫紺の空に伝つて四方に達する姿を思はずには居られない。その響は大空にまたゝいてゐる紫の星の一つ/\を揺がせて、高く懸つてゐる雲にもひゞき、月の中にも消え込み、山岳の頂までも伝はり、奥深い谿の中までも動かし、聞えて気付かず知…

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