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待っている女
まっているおんな
著者山川 方夫
文字遣い新字新仮名
底本 「夏の葬列」 集英社文庫、集英社
1991(平成3)年5月25日
初出「ヒッチコック・マガジン」宝石社、1962(昭和37)年2月
入力者kompass
校正者かな とよみ
公開 / 更新2021-01-07 / 2020-12-27
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 寒い日だった。その朝、彼は妻とちょっとした喧嘩をした。せっかくの日曜日なので、彼がゆっくりと眠りたいのに、妻はガミガミと彼の月給についての文句をいい、枕をほうりなげて、挙句のはて、手ばやく外出の仕度をして部屋から出て行ってしまったのだ。
 蒲団に首をうずめたまま、彼は、またか、と思った。また半日も帰らないのだろう。近ごろ、妻はよくこの手を使う。どうせ実家にでも行き、思うさまおれの悪口をならべてくるのにきまっている。が、それで彼女の気がすむなら、それもよかろう。おれはおれでもう少しの時間、この蜜のような眠りをむさぼれればそれでいいのだ。
 窓はもう明るく、一人きりの静かな部屋の中で、彼は、ごくやすらかにまた眠った。
 目がさめたとき、枕もとの時計は十一時をまわっていた。――腹のあたりが空虚すぎて、もう、どうにも睡ることができない。
 まだ、妻は帰っていない。彼は舌打ちをした。いまいましいことだが、結局、いつものように近くの煙草屋まで行き、ソバ屋にでも電話しなければ食事にはありつけない。
 仕方なく、彼は顔を洗い、ふだんの服に着替えた。寒風の中をジャンパーの襟をたてて、二、三十メートルはなれた煙草屋へとあるいた。
 煙草屋は、四辻の一角にあって、銀行の私設野球場をかこむ金網の塀の角に、ちょうど対角に面している。赤電話でソバ屋のダイヤルを廻し終えて、彼はふと私設球場の金網に片手をかけ、背を向けて、その若い女が立っているのを見たのだった。
 脚のすばらしく美しい女だった。襟の大きな、焦茶色の、しかしいささか毛脚の古ぼけた外套に身をつつんで、長い髪がやわらかく肩にかかっている。
 女はでも、私鉄の駅に向う一本の道に、じっと顔を向けつづけている。きっと、誰かを待っているのだ。……なんとなく、彼はすてきな青年が呼吸をきらし、走り寄ってくるさまを空想した。それは、見事な、頬笑ましい「愛」の風景に違いなかった。
 突然、うしろから声が呼んだ。煙草屋の小母さんが、ケースの上に乗り出すようにしていた。「……あの娘さんねえ」と、彼に目配せのような笑いを送りながら、小母さんは、声をひそめた。「ああして、もう二時間も前から、ずっとあそこに立っているのよ」
「二時間も前から?」
 そのとき、女が振りかえった。
 彼は、讃嘆の表情をかくすことができなかった。髪が少し乱れ、化粧もしていない顔だったが、女は充分に若く、美しく、魅力的な、あざやかな目鼻立ちをしていた。大きな瞳が、びっくりしたように彼をみつめている。色が白く、ぽっつりと小さな唇が紅い。
 だが、彼への無関心を示すように、女はすぐ、くるりと横を向いた。鼻が高く、耳のうしろのほつれ毛が可憐に風にそよぎ、女はまだ十代のように思えた。
 女は、しかし歩き出さなかった。彼はあわてて『憩』を買い、どぎまぎと我にかえりながら、まっすぐに下宿へ…

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