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「古琉球」自序
「こりゅうきゅう」じじょ |
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作品ID | 59540 |
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著者 | 伊波 普猷 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「古琉球」 岩波文庫、岩波書店 2000(平成12)年12月15日 |
初出 | 「古琉球」沖縄公論社、1911(明治44)年12月 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | かたこ |
公開 / 更新 | 2020-03-15 / 2020-02-21 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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『古琉球』を公にするに当って、まず言わなければならぬことは、恩師田島利三郎氏のことである。田島氏は私が中学時代の国語の先生で、琉球語に精通し、琉球人に対して多大の同情を有する人であった。氏は言語学者チェムバレン氏が一種不可解の韻文として匙を投げた『おもろさうし』の研究に指を染め、その助けをかりて古琉球を研究しようと試みた。氏がオモロの研究に熱中しているのを見て、当時の人は氏を一種の奇人としてあしらった位である。私の五年生の時であった。田島先生は校長の気に入らないで、諭示免職となって、琉球新報社に入ることになった。
この時の校長は一種の愛国者で、琉球人に高等教育を受けさせるのは国家のためにならないという意見を有っていたが、そういうことが動機となって、明治二十八年の秋に、沖縄の中学で未曾有のストライキが起った。私は漢那〔憲和〕君(今は衆議院議員で海軍少将)外三名の同級生と共に、その犠牲になって、二十九年の夏、東京に遊学することになった。その時私はよほどぐずぐずした青年であったが、それでも他日政治家になって、侮辱された同胞の為に奮闘する決心をした。そして二、三度高等学校の競争試験に応じて、かなり苦い経験を嘗めた。その間に、私は自分の性質や境遇が、政治的生活を送るに適しないということを覚って、断然年来の志望を抛った。三十三年に、京都の高等学校に入学した頃には、史学を修めて、琉球の古代史を研究してみようという気になっていた。二、三の友人は私が目的を変更したのを惜んで、幾度となく忠告をしてくれたが、三十六年には、いよいよ文科大学で、言語学の講義を聴くようになった。目的を貫徹するに、それが最も適当な方法だと考えたからだ。
その頃田島氏も上京して、日本女学校に教鞭を執っておられたが、私が言語学を修めると聞いて、大そう喜ばれた。そして私の家にしばらく厄介になっていた返礼として、数年間苦心して集めた「琉球語学材料」を悉く私に譲り、他日その研究を大成してくれということになった。私は氏と一緒に本郷西片町で自炊するようになったのを幸、琉球研究の手始めとして少しずつオモロの講釈を聴いた。二、三枚位も進んだかと思う頃、氏は突然東都を去って、台湾へ行かれたので私は大に失望した。そこでやむをえず、オモロの独立研究を企てたが、さながら外国の文学を研究するようで、一時は研究を中止しようと思った位であった。しかしオモロが如何に解し難い韻文だといっても、もともと自分らの祖先が遺した文学であって見れば、研究法さえ良ければ、解せないこともないと思って、根気よく研究を続けた。その頃考古学の講義で聴いたフランスの学者がロゼッタストーンを研究した話などは、私の好奇心を高めるに与って力があった。それから琉球古語の唯一の辞書『混効験集』の助けによって、オモロを読み始めた。一年も経たない中に、半分位は解せるよう…