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ひびき
作品ID596
著者水野 仙子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」 不二出版
1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷
入力者小林徹
校正者田尻幹二
公開 / 更新1999-04-29 / 2014-09-17
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 藤村の羊羹、岡野の粟饅頭、それから臺灣喫茶店の落花生など、あの人の心づくしの数々が、一つ一つ包の中から取り出されつゝあつた。――私はゴム枕に片頬をつけたまゝ、默つてお蔦が鋏をもつて糸を切るのから、その糸を丹念にくるくると指の先に巻いて、薄紫と赤と青との切手の貼られた送票を丁寧に剥がしたりしてゐるのを、もどかしく眺めてゐた。けれどもそのもどかしさに何ともいへぬ樂しさがあるのを思つて、私はせかずにぢいつと堪へてお蔦の手許をみつめてゐた。書簡箋、小形の封筒、そんなものを順々にお蔦が私の枕許に並べたてた。その時、それらのものゝ間に隱れるやうに挟つてゐたオレンヂ色の表紙を持つたこの小さな手帳を、私はふと手をのべて自分の蒲團の上に取つたのであつた。片手の指先でぱらぱらと繰ると、彈力のある紙は大いそぎで優しい薄桃色の線を綾に亂して伏せていつた。私は何となくこの手帳が氣に入つてしまつた。そしてすぐに萬年筆の鞘をぬいて、そのオレンヂ色のおもてに「響」と題を打つたのであつた。けれどもそれは、別にどうといふ意味を持たせたつもりではなかつた。たゞその時、左を下にして横つてゐた私の心臓の音が、とつとつとつとしづかに枕に響いてゐたのを、ふとそのまゝ紙の表に印象させたまでの事であつた。
 けれども、私は別にこれぞといつてこゝに書かなければならぬ事を持つてゐるのではない。毎日毎日、或は瞬間に、或はかなり長い間連續して、さまざまな思は私の心を過ぎて行く。それらが或は歌といはれるものゝ形を取る事もあれば、詩ともいふべきリズムを持つた獨語である場合もある。けれども敢てそれらを書きとめて置いて私の何になるだらう? やがては消えてゆくべき命であり、姿であるものを……私の心臓の響がはたと絶えた時、最もよくそのすべての意味を語るものは、何も書かずにのこされたこの白紙であるであらうよ! すべてを書き遺すにしてはあまりにこの思が多過ぎる……
 さらば愛も、憎も、惱も、苦もよ、今暫くが間であらうほどに、私の胸が張り裂けるまでは、お前達の棲所として、私はこの心臓を提供する。それらのものが、私のものとしてこの世にある間のしるしは、日毎夜毎に枕を傳うて我とわが耳に入る、あゝこの響である……とつとつと……

(かう、序のやうなものが、その手帳のはじめに書かれてあつた。それは昨年の秋の頃、廿七で死んでいつたある人妻の、たつた一つの遺稿――ともいふべきものであつた。彼女は生前相當な文筆を持つてゐたのであつたのに、自分の病が到底起つ事が出來ないのを知つてからは、時たま極めて僅な人達の間に書く手紙以外には、決してものを書かなかつた。それは書く事がなかつたのでも、また書きたくないからでもなかつたのだと私(作者)は思つてゐる。それは書きたくて書きたくて仕方がなかつたからこそ、その願があまりに強くあまりに大…

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