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暗中の接吻
あんちゅうのせっぷん
作品ID59611
著者ルヴェル モーリス
翻訳者田中 早苗
文字遣い新字新仮名
底本 「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日
初出「新青年」1926(大正15)年9月号
入力者ノワール
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-12-28 / 2021-12-09
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「御免なさい……御免なさい……」
 女は膝まずいて哀願していた。男は少しやさしい口調になって、
「起ちなさい、もう泣かんでもいい。おれにも欠点があったんだからな」
「いいえ、貴郎、飛んでもない……」
 女が口ごもりながらいうと、男は首をふって、
「お前と別れたのが悪かったんだよ。お前はおれを愛していたのだからね。尤も、おれだって初めはこんな風に考える余裕もなかったさ。あの当座、硫酸で顔を灼かれた痛みがひどくて、それから盲になって、おれの一生は恐怖と死のほかに何にもないということが初めてわかった時分は、今とは似ても似つかぬ考えに囚われていたんだ。誰だってああした苦しみの最中には、急にあきらめがつきやしないからな。だが盲になって不断の闇に閉されると、眠っている人のように、却って物事がはっきりと見えて来て、気が静まるものだよ。この頃おれは肉眼が見えない代りに、心眼で物を見るようになった。おれたちが住まっていたあの家が見える。昔の平和な日が、お前の笑顔が、眼前にちらつく。そうかと思うと、別れた晩のお前の寂しそうな顔が見える。裁判官はああした事情を知らないものだから、ただお前がおれをこんな不具者にしたという点に重きをおいたんだね。だから、おれは法廷へ出て詳しく説明をしたのだよ。裁判官は無論お前を禁錮にするつもりだった。そうするとお前は、何処ぞの監獄でじりじりと老い朽ちる外はなかったんだ。しかしお前を何年牢に入れたって、おれの視力はかえって来やしない。ところで、おれが証人席についたとき、お前はびくびくものだったろう。おれがきっとお前の罪状を洗いざらい申し立てて、こっ酷くやっつけはしないかと思ってね。だが、おれにはそんなことは出来ないんだ」
 女は両手に顔をうずめて、涙にむせびながら、
「貴郎は何てやさしい方でしょうね」
「おれは公平だよ」
 彼女は歔欷あげながら言葉をついだ。
「後悔しています。わたしは何という恐ろしいことをしたんでしょう。それだのに、貴郎は裁判官にわたしの放免を願って下さったのね。そして今もこんなに優しくして下さるんですもの。わたしは恥かしくて穴にでも入りたいくらいよ……済みません、ほんとうに済みません……」
 彼は、女がしゃべったり泣いたりするのを黙って聞いていた。椅子の背へ仰のけに頭を凭たせ、肱掛けに手をおいたまま、何の感動もないような風で耳を傾けていたが、やがて女が静まるのを待って問いかけた。
「お前はこれから何うするんだい」
「わかりません。わたし大変疲れていますから、四、五日ゆっくり休みたいんです。それから勤めに出ます。また売り子か、衣裳屋の生模型の口でも探しますわ」
「お前は相変らず美くしいだろうな」
 それを訊いたときの男の声はこわばっていた。
 女は答えなかった。
「お前の美くしい顔が一目見たいなア」
 彼女はなお黙りこんでいた。
 男…

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