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孤独
こどく |
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作品ID | 59613 |
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著者 | ルヴェル モーリス Ⓦ |
翻訳者 | 田中 早苗 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社 2003(平成15)年2月14日 |
初出 | 「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日 |
入力者 | ノワール |
校正者 | 栗田美恵子 |
公開 / 更新 | 2021-12-08 / 2021-11-27 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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その年老った事務員は、一日の単調な仕事に疲れて役所を出ると、不意に蔽かぶさってしだいに深くなってゆく、あの取止めもない哀愁に囚われた。そして失える希望と仇に過ごした光陰を歎く旧い悩みを喚びおこしながら、珍らしくも、ぼんやりと門前に立ちどまった。それまでは、毎日脇目もふらずに宿へ帰ってゆくことが、二十五年もつづけて来た習慣だったのに。
街は賑わっていた。店舗にはみな煌々と燈りがついて、通りかかる女たちも、人も、物も、すべてこの春の黄昏の幸福な安逸と、生の楽しさとを物語っていた。
老事務員は考えた。
「おれも今夜は人並に楽しんでみたいな」
金は衣嚢にある。宿へ帰ったって、誰も待っていてくれる者もないのだ。
彼は辻馬車を呼びとめた。
「ボア公園へやってくれ」
馬車はシャンゼリゼーをまっすぐに駆けて行ったが、幾組となく睦まじく連れだって歩いている男女のさざめきが彼の耳に聞え、多くの馬車が彼の馬車とすれちがった。彼は初めてそうした華やかな群の中へ入ったのだが、何というわけもなく、沁々寂しさと遣瀬なさを感じた。それは、役所から閑かな街を通っててくてく宿へ帰って行くときよりも、もっともっと深い寂しさ、遣瀬なさであった。
ボア公園で馬車を乗り棄て、やがて或るレストオランへ入って空席をさがしていると、給仕がやって来て、
「お二人の御席でございますか」
「いや、僕は一人だ」
「では、どうぞ此方へ」
燈りの漲っている賑やかな広間であるにも拘らず、彼は何だか遠く懸離れた、暗いところへ島流しにでもされたような気持がした。歓楽は、彼の坐っている小卓から数歩のところで立ちどまっているらしかった。四辺を見ると、他の連中のいかにも楽しそうなのが不思議だった。
陽気に躁げる齢でないことは、自分にもよく解っていた。そのくせ、昔の思い出の中にそれを探し求めたって、彼の思い出には、今宵目のあたりに見るがごとき光景に似寄ったものは何もなかった。彼は上の空で食事をしながら、
「おれは只の一度だって楽しい思いをしたことがない。おれには青春というものがなかったんだな」
そんなことを考えた。
それから頬杖をついて、きょとんとした眼付をして、取止めもない思いを辿っているうちに、空気が人いきれで重くなって、人々のさざめきや、皿の音や、酒杯に肉叉の触れる音や、さては煙草の煙りのために朦朧と燈りの暈った中から音楽がはじまった。
その音楽は、どうも度々聴いたことがあると思った。何処で? それははっきりしないが、兎に角それを聴いていると、曲の名も歌詞も知らぬながらに、その折返の一つが早速お馴染になって、思わず口吟みたくなる類のものであった。
突然、いろいろな幻影が想像にうかんで来た。まるで別人になったような気持がして、魂いの奥に眠っていた数々の野心が急に目ざめ、感覚が極めて鋭敏になり、そして明る…