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小さきもの
ちいさきもの
作品ID59617
著者ルヴェル モーリス
翻訳者田中 早苗
文字遣い新字新仮名
底本 「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日
初出「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日
入力者ノワール
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-01-19 / 2021-12-27
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「裁縫は出来るの」
「少しばかり致します」
「煮焚も出来るね」
「はい、マダム」
「毎日、朝六時からここへ来て、家の雑用と食事の仕度をしてもらいます。給金は葡萄酒代も入れて一ト月四十フランだがね、それでいいの」
「それはもう結構でございますが……ただ……」
 と女中はいいかけて、遠慮がちに口ごもった。そして、抱かれてすやすやと眠っている赤ん坊から眼を離さずに、可愛くてたまらないといった風で、その子の顔へ頬ずりをしながら、
「ただ、わたしは独りぽっちでございまして、家に人手がないものですから、この赤ん坊をつれてまいってもよろしいでしょうか。おとなしい子でございます。御覧のとおり、ちっとも泣きはしません。お台所の隅にでもおいていただけば……古い枕に寝かしておいて……ときどきわたしが乳を与ります。家に人がいないものですから、此子の面倒を見てくれ手がございませんので」
 恐る恐るこう歎願すると、マダムはすぐに反対した。
「困ったね。その子、幾歳なの」
「生れて三月でございます」
「三月の赤ん坊を此家へつれて来るって? 駄目よ、旦那さまはきっと可けないと仰しゃるわ、心配が大変だからね。怪我でもあったらどうするの。ひょっとして猫に喰いつかれるとか、それにまだ乳呑児なんだからね、大きな声を出したり、泣いたり……いいえ、駄目です。近所にでも託けたらどうだね」
「そう仰しゃらずに、マダム……」
「お気の毒だがね、此家は駄目よ」
 女中は顔をうつむけて、赤ん坊の眼の上に接吻をした。彼女はげっそりして、もう念をおして歎願する勇気もなければ、反抗心も起らなんだ。ただ非常に疲れていて、眠くて仕様がなかった。この一週間というものは、殆んど饑死をするかと思ったくらいで、こうした返事には慣れっこになっていたのだ。
 こんなときは、何か腕に覚えがあれば助かるのだが……彼女はあいにく何も知らない。仕事を探すにしても、女中の口より外にはなく、しかも赤ん坊という瘤がついているものだから、何処へ行っても拒ねられた。或るときは侮辱され、或るときは気の毒がられもしたが、拒ねられることに変りはなかった。
 彼女は強いて寂しい微笑を口元に浮かべながら暇をつげた。そして当てもなく街を歩いているうちに、日はとっぷりと暮れて、店頭には燈りがついて、家々の窓が一つずつ明るくなっていった。もう夜になったと思うと、往来が妙にうら寂しく、寒げに見えた。彼女は何を考えるということもなく、何の希望もなく、只もう当てずっぽうに歩いているのであった。
 火の気は無論のこと、一片の麺麭もない下宿の部屋へ帰ったって、どうすることも出来はしない。
 いつの間にか河岸っぷちへ出た彼女は、途方にくれながらぼんやりとそこに突立っていた。両岸は暗くなって、その間をばセーヌ河がゆるやかに流れていた。波の囁きと、水垢の臭いと、寒さで彼女はぞっとし…

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