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蕩児ミロン
とうじミロン
作品ID59619
著者ルヴェル モーリス
翻訳者田中 早苗
文字遣い新字新仮名
底本 「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日
初出「新青年」1926(大正15)年9月号
入力者ノワール
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2025-04-15 / 2025-04-15
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 若くもなければ美人でもないあの女に、ミロンがどうしてあんなに惚せたのか、それは誰にもわからぬ謎であった。
 ミロンはそれ以来、親友にも疎くなり、始終彼を見かけた場所へも、ぱったり顔を見せなくなった。そればかりでなく、彼は芸術のためという真摯な態度を棄ててしまって、下らない糊口的の絵を描きだした。
 或るとき旧友の一人が彼を諫めた。
「君は馬鹿だな、ミロン。君はこの頃下らん仕事ばかりやっているものだから、腕が荒ぶのだ、芸が堕落するんだ」
 するとミロンは肩を怒らして、
「馬鹿を云え」
 とせせら笑った。それでも友人はミロンのゆたかな天分を賞めて、彼が以前大いに画壇に名を成そうと意気込んでいた時分のことを云いだして飽くまで反省させようとすると、ミロンはあべこべに向っ腹を立てて、
「天分が何だい、盛名が何だい、笑わしやがらア。おれなんか、そんなものにあこがれていた時分はな、屋根裏にくすぶって、一日一食しか食えなかったんだ。そのくせ『彼奴はきっと大家になるぜ』なんて人がいってくれたもんさ。今は誰もそんなことをいう奴がない代りに、飯はたらふく食ってるんだ。おれは暢気で幸福だよ。素的に幸福だよ」
 こう云いすてて、さっさと行ってしまった。だが、友人の姿が見えなくなると、彼はそこいらのカッフェへ飛びこんで、空っぽになった酒杯を前に、何時間もぼんやりと考えこんでいるのであった。
 ミロンは嘘をいったのだ。彼は決して幸福ではなかった。初めのうちは恋愛で夢中になって、何もかも忘れていた。新生活に必要な金をこしらえるために、つまらない小品画や新聞雑誌の挿絵などをむやみと描きなぐった。が、あまり厭な気持がするときは、
「なアに、おれだって今に真面目な製作をはじめるんだ」
 そう思って僅かに自分を慰めた。しかし時が経つにつれて、その決心もおとろえて殆んど臆病にさえなった。今では胸のそこに憂鬱な悔恨がきざして来て、ひそかに自分の腑甲斐なさを恥じているのだが、恋ゆえにだんだん深間へ引きずられてゆくのを、どうすることも出来なかった。
 そのうちに借金がどんどん嵩んで来て、債権者からは責められる。それがために情婦と喧嘩がはじまる。そんなことで苦しまぎれに、彼はとうとう不正手形を振りだした。
 初めどうにかして金をこしらえて、その手形を落すつもりであったけれども、生憎仕払日の前日になっても金の工面がつかないものだから、彼は途方にくれてついに夜逃げをした。
 人目につかぬように、まず一人で出発した。情婦も後からやって来る約束だった。彼はその約束を信じきっていたので、その晩隠れ場所へつくと、殆んど何の煩悶もなくぐっすり眠こんだ。
 翌くる日は女からの手紙を待ちわびていると、晩になって『ユカレヌ』という簡単な電報が一本とどいただけであった。
 彼は茫然自失した。女がこんな電報を書くわけがないと思っ…

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