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ピストルの蠱惑
ピストルのこわく
作品ID59626
著者ルヴェル モーリス
翻訳者田中 早苗
文字遣い新字新仮名
底本 「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日
初出「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日
入力者ノワール
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-04-10 / 2022-03-27
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一時間前までおれは囚人だった。しかも大変な囚人だ。外聞だの刑期だのという問題ではなく、すんでのことに、この首が飛ぶところであったのだ。
 斬首台を夢に見て魘されたことも幾度だかしれない。そんなときは思わずぞっとして、もしやあの庖丁の細い刃の痕がついていはせぬかと、冷汗の滲んだねばねばする手で、そっと頸筋を撫でてみるのだった。弥次馬の立騒ぐ声までも聞えるような気がして、ぶるぶるっと身ぶるいがした。『死刑にしろ、死刑にしろ』という嗄れた叫び声が耳底でがんがん鳴った。
 しかし今はすべてが終った。おれは釈放されて、自分の住室へ帰って来たのだ。そしてもう一度市街の雑鬧や、店屋の明るい電飾が見られる躯になったのである。今夜は久しぶりにゆっくりと晩餐を使おう。暖炉のそばで好きな煙草も喫めるし、それに、暖かい自分の寝床でのうのうと眠れるのだ。
 だが、おれはこうして辛と無罪放免になったばかりなのに、今この瞬間ほど、自分を痛切に罪人だと感じたことはない。
 裁判官がどう踏みちがえて、おれの正体が捉めなかったのか、不思議でたまらない。おれは徹底的にあらゆる事実を否定することに熱中しつづけたので、頭がぼうっとしてしまった。もう少し頭がはっきりして来たら、是非とも事の真相を書かねばならぬ。おれはこの真実をば、過去三ヶ月の間、巧みに且つ意地わるく隠しとおして、終いには、殆んど自分の嘘を自分で信ずるくらいまで漕ぎつけたのであった。
 ところが何を隠そう、おれが殺人者なんだ。あの女を殺したのは、このおれなんだ。
 何故殺す気になったのか。だれにもわからない。何だってあんなことを仕出来したのか、自分にもまるで合点がゆかぬ。
 おれはあの女に惚れていたのではないから、嫉妬が原因でないことは確かだ。といって物盗りのためでもなかった。裕福なおれは、彼女の屍体から発見された数フランの金なんかに目がくらむわけはないのだ。左ればといって、憤怒の果に殺したのでもなかった。
 あのときおれ達両人はこの室にいたのであった。彼女はあの鏡のそばに立っていたし、おれは恰度今坐っている場所に坐っていた。おれが本に読みふけっていると、彼女は話しかけた。
「外へ出ましょうよ。ボア公園へ散歩に出かけようじゃありませんか」
「僕は疲れているから駄目だ。家にいる方がいい」
 とおれは顔もあげないで拒ねつけた。
 彼女は行こう行こうとせがんだけれど、おれはどこまでも厭だと頑張った。それでも執拗くせがむので、おれはその声が癪にさわって来た。彼女はいかにも腹立たしそうな物のいい方をして、おれの不精を皮肉ったり、冷笑たり、軽蔑して肩をゆすぶったりした。
 おれは数回彼女を黙らせようとした。
「静かにしてくれないか。頼むから静かにしてくれ」
 だが、女は平気で饒舌をつづけた。おれは起ちあがって室の中を歩きはじめた。そうして歩き廻っ…

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