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ラ・ベル・フィユ号の奇妙な航海
ラ・ベル・フィユごうのきみょうなこうかい
作品ID59628
著者ルヴェル モーリス
翻訳者田中 早苗
文字遣い新字新仮名
底本 「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社
2003(平成15)年2月14日
初出「新青年」1928(昭和3)年10月号
入力者ノワール
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-04-29 / 2022-03-27
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「好い船だろう、え?」
 だしぬけに声をかけられて、ガルールはふと顔をあげた。彼は波止場に腰をかけて両脚をぶら垂げたまま、じっと考えこんでいたのであった。
 で、顔をあげると、一人の見知らぬ男が、背ろから屈みこんで、向うに碇泊している帆船の方を頤でしゃくっていた。
「好い船だろう?」
「うむ」ガルールは簡単に合槌をうった。
 港は、海員の同盟罷業が長びいたために、ひっそり寂れてしまって、沈滞しきった姿を呈していた。
 男はガルールの頭のてっぺんから、真黒に陽炎けのした頑丈な頸筋や、広い肩や、逞ましい腕のあたりをじろじろと見た。襤褸シャツを捲りあげた二の腕に「禍の子」「自由か死か」という物凄い入墨の文字が顔を出しているのをも、彼は見逃さなかった。
 と、今度はガルールが、相手の容子をじろじろと見かえした。その男も陽に炎けて筋骨逞ましく、手の甲の拇指のところに碇の入墨がしてある。そして青羅紗の広い上衣に、折目正しいズボン、金筋入り頤紐つきの帽子――これを襤褸服姿のガルールなんかに較べると、まるで段ちがいに立派な服装だ。
 ガルールは横っちょにペッと唾を吐きながら起ちあがって、ズボンの裾を捲りあげて立ち去ろうとすると、男は馴々しく肩へ手をかけて、
「ねえ君、そこいらで一杯飲ろうじゃないか」
 湿っぽい夕風が身に沁みる。近所の酒場では、硝子窓の外の暗をすかしながら、ちびりちびり飲っている時分だ。
 ガルールは酒と聞いて鼻をひこつかせたが、
「一杯飲ろうなんて、どうしたんですか?」
「飲みたくなったからさ」
 海にも灯が入った――帆船の黄色い灯や、突堤の端に碇泊している監視船の青と赤の灯が、ちろちろ瞬きはじめた。
 煙のように棚びいている夜霧のために、船の帆檣も海岸の人家もぼうっとぼかされ、波止場に積まれた袋荷や函荷も霧に罩められて、その雨覆にたまった雫の珠がきらきら光っていた。
 男は先に立って、海岸のうす暗い路地の方へぐんぐん歩いて行ったが、とある小さなカッフェの戸口を開けると、ガルールを押しこむようにして奥の方の席に導いた。
 そこは、天井が薄黒く煤け、壁のところどころに安物の石版画が貼りつけてあった。アルコールや、鰊樽や、煙草の臭いのむっと籠った室で、帳場のそばには貧弱な暖炉が燃えていた。
「酒は何がいい?」
「シトロン酒の強いやつを飲まして下さい」
 ガルールは、男が出してくれた煙草を捲きながら答えた。
 酒が来ると、ガルールは一息に飲みほした。男も一息に、しかし幾らか緩くり加減に飲り、不味そうに手の甲で唇を拭いて、何か考え事でもするように、洋酒の底をいじくりながら、
「一体君は、職業は何だね」
「そういうお前さんは?」
「おれかい。おれは先刻君も見たラ・ベル・フィユという二檣帆船の運転士だがね、姓名は……聞きたければ教えてもいいが」
「こうお交際を願ったか…

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