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科学の限界
かがくのげんかい
作品ID59765
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」 朝日新聞社
1966(昭和41)年10月20日
初出「心」平凡社、1958(昭和33)年7月
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2022-07-04 / 2022-06-26
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今世紀にはいってからの科学の進歩には、まことに目ざましいものがあった。とくにこの十年以来、その進歩は、一大飛躍をなし、原子力の開放、人工衛星の打ち揚げなど、人類の歴史の上に、金字塔として残る幾多の事業を為しとげた。
 こういう華々しい科学の成果に幻惑された人々の中には、あたかも科学を万能のものとする考え方が、次第に一つの風潮となりつつある。そして科学がさらに数段の進歩をすれば、人間のいろいろな問題が、全部科学によって解決される日が来るかの如き錯覚に陥っている人もあるようである。宇宙時代というような言葉が流行し、それが何か人間を変えることのように思われているのも、その一つの現われである。月や火星の景色を見たり、其処にある資源が利用できる日が来ても、それは百年前に、北極や南極へ行ける日を夢見ていたのと、同じことである。今日では、北極へも南極へも、飛行機ならば、文明圏から、十数時間で行ける。しかしその時代でも、人間は、相変らず、戦争や貧困におびえている。
 科学が非常に強力なものであることには、誰も異論はない。しかしそれは、科学の処理し得る問題の範囲内での話である。一歩その範囲の外に出れば、案外に無力なものである。科学的とか、科学精神とかいうような言葉が、方々で使われ、人生問題や、政治の問題などにも、よく顔を出している。もちろん正当な意味で使われている場合もあるが、多くの場合は、それ等の言葉は、アクセサリーとして使われている。或いは「科学者の意見」として、ジャーナリズムに担がれている場合もある。
 その極端な例としては、この頃、宗教にまで、科学を取り入れようとする宗教家もあるようである。キリスト教では、マリアの処女懐胎が、信仰になっているが、生物学では、そういうことは認められていない。ところが、下等動物では、無性生殖といって、雌だけで子が出来るものもある。そういう知識をとり入れて、マリアの処女懐胎を説明しようとする人にも会ったことがあるが、こういう話は全然間違っている。宗教と科学とは、全く別のものであって、科学といくら矛盾しようが、そんなこととは無関係に存在しているところに、宗教の本質があるのではないかと思う。
 宗教に科学的な要素を採り入れようとする考え方の底には、科学の方を、宗教よりも有力なもの、あるいは確実なもののように考えているところがある。より優れたものと思えばこそ、それを採り入れようとするのであろう。
 ところが、その逆の場合もある。「科学を窮極のところまで勉強すると、最後は宗教に達するのではないでしょうか」というような質問を時々受けることがある。これも妙な話であって、この考え方では、宗教を科学よりも一段上としているが、これも宗教と科学とを、同一の線の上においている点では、前の考え方と同様であって、これも間違っていると、私は思っている。科学と宗教との…

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