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寅彦の作品
とらひこのさくひん
作品ID59790
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」 朝日新聞社
1966(昭和41)年10月20日
初出「毎日新聞」1955(昭和30)年2月
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2021-12-31 / 2021-11-27
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 明治大正の時代については、いろいろな見方もあるが、日本民族が、精神的の飛躍をした時代であることには、間違いがない。西欧文明を急速に摂取して、日本が近代世界の仲間入りをした時代である。
 この時代の文化人は、今日の文化人とは、教養の質と量とにおいて、大分違うようである。鴎外や漱石が、すぐ例に出されるが、日本人としての精神的骨髄が非常にしっかりしていて、その上に、西欧文明の深い学識を身につけていた。
 寅彦先生にも、この傾向が強く見られる。漱石の評語「神経質な仙人」というのが、まさにあたっている。神経質は、西欧の我の自覚の産物であり、仙人は神仙道を通じての東洋精神の具象である。その上寅彦には、同時代の知識人の教養に付加するもの、即ち科学があった。
 今から考えてみても、依然として不思議である。専門の物理学以外は、いわば副業的教養であるが、その学識が私たちの常識を逸脱している。外国語は、英仏の外に、電車の中でカントの純粋理性批判をドイツ語で読み、夕食後ツルゲネーフをロシア語で読んでおられた。
 東洋的教養は、漢学よりもむしろ、純粋に日本的なものに傾いていた。明治以後において、俳諧を最も深く味わった人は、寅彦かもしれない。「心の涼しさを現わす言葉」として、風流を解していた。
 漱石を通じてかと思われるが、英国流のユーモアも、何気ない形で、方々にはいっている。ジャーナリズムの魔術を論じて、「例えば忠犬美譚で甲新聞が人気を呼ぶと、あとからあとからいろいろな忠犬物語が方々から出て来て、日本中犬だらけになり……」といった調子である。
 日本の教養、西欧の文化、近代の科学、とこの三要素が、一人の人間の中に融合し、その全体を柔らかい情緒と深い愛とで包んだものが、寅彦の作品である。鴎外や漱石が、半ば古典的に感ぜられる若い読者には、寅彦がよく、明治大正の精神の一つの型を物語ってくれるであろう。
 寅彦の随筆集は、初めの形では、今日容易に手に入らない。全集また然りである。手軽に入手出来るものは、岩波文庫の『寺田寅彦随筆集』五巻であろう。この中から三冊をとることも、全巻百数十編の随筆中から、三編を選ぶことも意味がない。それで寅彦を読んで見たいと思われる方には、この五巻をお奨めしたい。小宮先生の編まれたもので、よく寅彦の全貌を伝えている。
 手引の意味で抒情詩人としての寅彦が最もよく現われているものを探せば、まず初期の作品が挙げられよう。少年の日のやるせない哀感を唄った『龍舌蘭』と、若くして逝った可憐な最初の奥さんの追憶『團栗』とは、ともに美しい散文詩である。小学生時代から大学にかけての若き日の追想を、花に托した『花物語』も、これ等に劣らぬ美しい詩である。
 中年の胃潰瘍の吐血は、その後の寅彦の生涯を決定したものであるが、『病院の夜明けの物音』『病室の花』『春寒』などに、当時の心境がよ…

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