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根強い北陸文化
ねづよいほくりくぶんか
作品ID59794
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」 朝日新聞社
1966(昭和41)年10月20日
初出「北陸中日新聞」1960(昭和35)年11月
入力者砂場清隆
校正者木下聡
公開 / 更新2022-03-03 / 2022-02-25
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私が四高の学生だったころに、金沢から一人の若い青年が突如として、彗星のごとく日本の文壇にあらわれた。それは『地上』でもって、一躍世に出た島田清次郎であった。
 当時私は、寺町の医師の住宅に下宿していたが、この家は、そのころ金沢でも一流の料亭であった「望月」の並びにあった。犀川べりの高い岸の上に建っていて、縁先からは、はるかに医王山が望まれ、犀川の流れは、一望の下に脚下にひらけていた。月の夜などは、犀川の流れにくだける月影が、まことに美しかった。
 この家の若主人は、病院へ通っていたお医者さんであって、家で患者はみていなかった。おとなしい文学好きの人で、島田清次郎とは、遠縁にあたっていた。生田長江から「若きドストエフスキー」として文壇に送り出された当時の島田清次郎は、文字どおりに、旋風を巻き起こしていた。
 このお医者さんは、清次郎の中学時代をよく知っていた。西の郭の芸者屋で、母と二人で部屋住みの生活をしていたころのことである。少年時代からの文学狂で、よく短編小説のような作文を書いてその文章を直してくれといって、このお医者さんのところへ持ってきたこともあるそうである。
 最近の十一月号の雑誌「自由」に杉森久英氏が「天才と狂人の間」という題で、島田清次郎のことを書いておられる。そのなかには清次郎の身辺のことばかりでなく、当時の北陸および金沢の文化的ふんいきがよく描写されているので、なつかしかった。
 いまから考えてみると、当時の北陸にはたしかに、一つの地方文化があった。松任町の明達寺には暁烏敏がいて、親鸞思想普及の開拓者として多くの信者を集めていた。信者はこの地方に限らず全国から集まって来た。北陸の田舎の一小寺にこもって全国からの求道者をその膝下に集めるというのはあまり例のないことである。
 文学の方では、室生犀星が、二十六、七歳の若さで、すでに名を成し、東京に半年、金沢に半年という生活をしていた。金沢における文運復興の機運は目ざましく、五種以上の同人雑誌が発刊され、土地の新聞の文芸欄も、異常な活気を呈していた。
 のちに考古学を専攻した私の弟なども、この熱に浮かされ、中学時代にすでに同人雑誌を出して短編をいくつか発表していた。その一つが芥川竜之介に認められ、弟は菊池寛のところで横光利一などと一緒に、ごろごろしていた時代もあった。
 あの時代は少し特別だったかもしれないが、北陸とくに金沢には、こういう特殊の地方文化が育成される基盤は、今日までつづいているように思われる。この基盤は、前田家の百万石の文化につらなるものであろう。
 その感を深くしたのは、最近機会があって、金沢を訪れたときのことである。兼六園内に新しく出来た美術館で、名宝展を見たが、これはまことに驚くべきものであった。仁清の鶴の香炉はいうまでもないが、足利時代にまでさかのぼるといわれる能衣装の豪華さ…

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