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無知
むち |
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作品ID | 59798 |
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著者 | 中谷 宇吉郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」 朝日新聞社 1966(昭和41)年10月20日 |
初出 | 「現代教養講座第二巻 幸福と自由」角川書店、1957(昭和32)年1月10日 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | 木下聡 |
公開 / 更新 | 2022-10-10 / 2022-09-26 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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人間の幸福をはばむ最大のものの一つに、無知がある。ギリシャの哲学では、その点を強調して、知らないで犯した罪の方が、知って犯した罪よりも重いとした。罪の悪と、知らないことの悪と、二重の罪を犯したことになるからである。
こういう考え方は、一見、われわれの感情とは、ひどくかけ離れているようにみえる。知らないで犯した罪は、情状酌量すべき余地があるが、悪いことと知りながら犯した罪は、罪状がずっと重い。これが、われわれの普通の感じである。理性の上では、あるいはギリシャふうな考え方に、理窟があるかもしれないが、人情としては、知らないでやったことなら、しかたがないと同情する方が、人間的である。
おそらくわれわれ日本人の考え方では、ほとんどの人が、こういうふうに感じていることであろう。しかしこの考え方は、もっと深く掘り下げて検討してみる必要がある。無知の恐ろしさということについて、従来あまり深い考慮が払われていなかったからである。
無知の罪悪について、まず今言ったような感情的な面から考えてみよう。すぐわかることであるが、同情論としても、全く逆の考え方も成り立つのである。
悪いことと知りながら、何か罪を犯すのは、たいていの場合、よほど切羽つまった事情にあるからである。その極端な例としては、数日間食うものが無くて、餓死一歩手前にある人間が、一切れのパンを盗んだ場合が挙げられよう。この場合は悪いことと知りながら盗んだわけであるが、大いに同情すべき余地がある。
もちろんそうでないように見える場合もたくさんある。たとえば、ギャングなどが、周到な準備をととのえて銀行を襲撃するとか、子供を人質にとってそれを殺すとかいう場合は、同情すべき要素が全くない。しかしよく考えてみると、これらは、悪いことと知りながら犯したというよりも、むしろ知らないのではないかという気がする。
アメリカの暗黒街に巣くっているギャングたちの世界は、日本の昔の博徒たちの世界と、一脈通ずるものをもっている。悪いことはするが、彼らなりの仁義もあって、派手な銀行襲撃事件などは、スポーツ的興味もかなり伴なっているようである。普通人とは、別の世界に住んでいるので、したがって、三流映画で見るようないわゆるギャング事件は、しだいに過去の話となりつつある。
およそ考え得る犯罪の中で、一番凶悪なものは、人質にとった子供を殺す場合で、これは全然同情の余地がない。アメリカなどでは、死刑の執行は、どんな場合でも、一応は大問題になるが、子供を殺した場合は、無条件に死刑で、それには誰も異存がない。そういう最悪のことを、いかに凶悪な犯人でも、悪いと知らないわけはないと、一応は考えられる。しかしこれは、言葉の文になるかもしれないが、本当には悪いと知らないから犯す行為ともいえる。幼児を殺しても、自分には何の利益にもならない。生かしておいて…