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犬がなくとガラスがこわれるか
いぬがなくとガラスがこわれるか
作品ID59816
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「極北の氷の下の町」 暮しの手帖社
1966(昭和41)年7月1日
初出「暮しの手帖 昭和36年第3号」暮しの手帖社、1961(昭和36)年7月5日
入力者砂場清隆
校正者kompass
公開 / 更新2021-09-11 / 2021-08-28
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今日は、科学の時代といわれる。
 宇宙ロケットがとび、人工頭脳がそれを操作する。原子力発電機が、北極の厚さ二千メートルの氷の上に設置され、生命をもったヴィールスが、結晶としてとり出される、まさに科学の時代である。
 しかし、これほど、科学科学とさわがれる世の中でありながら、それでは「科学とはなにか」ときかれると、きわめてあいまいな返事をされる人のほうが多い。ロケットも、人工頭脳も、原子力発電も、科学によってつくられたものであって、科学そのものとは、いいかねる。
「科学は、自然界にあるものを、ものとして取扱い、その本体と、いろいろなものの間にある規則性、すなわち法則とをしらべる学問である」といった方がよい。しかしこれでも、なんのことかよくわからない、と言われるであろう。わからない方がほんとうであって、こういう抽象的な言葉で、わかったような気になられると、かえって困るのである。
 それで、一つ例をあげて、説明してみよう。
 ここに、一筋の川があったとする。その川岸をいろいろな人が、おとずれてくる。ある人は、「これは流れもそう速くなくて、よい川だ。この付近に工場を建てたら、舟便が使えて、ずいぶん便利だろう」と考える。この人は実業家であり、この川を、営利的に見ているわけである。
 べつの人は、川岸に立って、あたりの景色をながめ、「ああ、いい景色だ。あのあたりの水の色がすばらしい」という。この人は画家であって、この川を美的に見ているのである。
 もう一人の人は、しばらく川岸にたたずんでいたが、やがてしゃがんで、手の先を水に浸してみる。そして子供のころ裏の小川で遊んだことをおもい出す。「もうあの川にも、えびはいなくなっただろうな」と心の中でひとりごとをいう。この人は詩人であり、この川を詩的に見ているわけである。
 ところが、これらの人たちとは、まったくべつな見方をする人もある。この川では、一分間にどれだけの水が流れているのだろう。表面と底とでは、流れの速さが、どれくらいちがうだろう。あのあたりの深い場所には、底の方に水が動かないところがありはしないか。あの浅瀬のところは、川底の砂が、かなり流されるだろう。こういう見方をする人は、科学者であって、この川を、科学的に見ているのである。
 科学的とか、科学とかいっても、なにもむつかしいことではない。川を川として扱って、その様子を、私情を入れないで、なるべくくわしく見るだけのことである。
 もっともこれだけでは、ものを知りたがっている人は満足しない。ものごとをよく知るためには、そのもの自身ばかりでなく、その動きまたは働きも見なければならない。そういう動きや働きのことを、科学では、現象といっている。いまの例でいえば、水はものであり、その流れは現象である。この言葉を使えば、科学は、ものの本性および現象の実態を見ることから始まるとい…

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