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『悲しき玩具』を読む
『かなしきがんぐ』をよむ
作品ID59823
著者伊藤 左千夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「群像 日本の作家 7 石川啄木」 小学館
1991(平成3)年9月10日
初出「アララギ 第五卷第八號」1912(大正元)年8月1日
入力者きりんの手紙
校正者高瀬竜一
公開 / 更新2021-02-20 / 2021-01-27
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 石川啄木君は、齢三十に至らずして死なれた。『一握の砂』と『悲しき玩具』との二詩集を明治の詞壇に寄与した許りで死なれた。
 石川君とは鴎外博士宅に毎月歌会のあつた頃、幾度も幾度も逢つた筈である。処が八度の近視眼鏡を二つ掛ける吾輩は、とう/\其顔を能く見覚える事も出来なくて終つた。
 さうして今此遺著を読んで見ると、改めて石川君に逢着したやうな気がする。かすかな記憶から消えて居つた、石川君の顔が思ひ浮ぶやうな心持がした。
 それは吾輩が今此詩集を味読して、石川君の歌の特色を明に印象し得たからであらう。
 此詩集に収められた歌と、歌に対する石川君の信念と要求とに関する感想文とを繰返して読んで見ると、吾輩などの、歌に対する考や要求とは少なからず違つて居るから、其感想文には直に同感は出来ない。従て其作歌にも飽足らぬ点が多い。
 だが読んで見れば、感想文も面白く、作歌も相当に面白く、歌と云ふものを、石川君のやうに考へ、歌と云ふものに、さういふ風に這入つて行かねばならない道もあるだらうと首肯される点も充分認められるのである。
 吾輩は只石川君の所謂(忙しい生活の間に心に浮んでは消えて行く刹那々々の感じを愛惜する云々)といふやうな意味で作られたものが最善の歌とは思へないだけである。記述して置かなければ、消えて忘れて終ふ刹那の感じを歌の形に留めて置くと云ふだけでは、生命の附与された、創作と認めるには、顕著な物足らなさを、吾輩は思はない訳に行かないのである。
 歌はこれ/\でなければならないなどゝは吾輩も云ひたくはない。又そんな理窟の無いことも勿論である。だから吾輩は只此集のやうな歌に満足が出来ないと云つて置くのみだ。
 石川君はまだ年が若かつた、[#「若かつた、」は底本では「若かつた。」]吾輩はそれでかう云ひたい。石川君は此のやうな歌を作り作りして行つて最う少し年を取つて来たら、屹度かう云ふ風な歌許りでは満足の出来ない時が来る。それが内容の如何と云ふことでなく、技巧の上手下手と云ふことでもなくて、既成創作が含める生命の分量如何に就て、必ず著しい物足らなさを気づいて来るに違ひ無いと思ふのである。
 茲は歌の議論を為すべきでないから、多くは云はないが、石川君のやうな、歌に対する信念と要求とから出発したものならば三十一字と云ふやうな事を始めから念頭に置かない方が良いのぢやなからうか。よしそれを字余りなり若くは、三十六字四十字を平気で作るにせよ、大抵三十一文字といふ概則的観念の支配下に作歌する意味が甚だ不明瞭で無かないか。吾輩は要するに詩といふものに、形式といふ事をさう軽く見たくはないのである。詩の生命と形式との関係には、石川君などの云ふよりは、もつともつと深い意味が無ければならぬと吾輩は信じて居るからである。
 乍併此詩集を読んで、吾輩の敬服に堪へない一事がある。それは石川君の歌…

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