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![]() ぶんだんむかしばなし |
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作品ID | 59851 |
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著者 | 谷崎 潤一郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「谷崎潤一郎随筆集」 岩波文庫、岩波書店 1985(昭和60)年8月16日 |
初出 | 「コウロン」1959(昭和34)年11月 |
入力者 | きりんの手紙 |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2022-07-24 / 2022-06-26 |
長さの目安 | 約 20 ページ(500字/頁で計算) |
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昔、徳田秋声老人が私にいったことがあった、「紅葉山人が生きていたら、君はさぞ紅葉さんに可愛がられたことだろうな」と。紅葉山人の亡くなったのは明治三十六年で、私の数え年十八歳の時であるが、私が物を書き始めたのはそれから約七年後、明治四十三年であるから、山人があんなに早死にをしなかったら、恐らく私は山人の門を叩き、一度は弟子入りをしていただろうと思う。しかし私は、果して秋声老人のいうように山人に可愛がられたかどうかは疑問である。山人も私も東京の下町ッ児であるから、話のウマは合うであろうが、またお互に江戸人に共通な弱点や短所を持っているので、随分容赦なく腹の底を見透かされて辛辣な痛罵などを浴びせられたに違いあるまい。それに私は山人のように生一本な江戸ッ児を以て終始する人間ではない。江戸ッ児でありながら、多分に反江戸的なところもあるから、しまいには山人の御機嫌を損じて破門されるか、自分の方から追ん出て行くかしただろうと思う。秋声老人は、「僕は実は紅葉よりも露伴を尊敬していたのだが、露伴が恐ろしかったので紅葉の門に這入ったのだ」といっていたが、同じ紅葉門下でも、その点鏡花は秋声と全く違う。この人は心の底から紅葉を崇拝していた。紅葉の死後も毎朝顔を洗って飯を食う前に、必ず旧師の写真の前に跪いて礼拝することを怠らなかった。つまり「婦系図」の中に出て来る真砂町の先生、あのモデルが紅葉山人なのである。或る時秋声老人が「紅葉なんてそんなに偉い作家ではない」というと、座にあった鏡花が憤然として秋声を擲りつけたという話を、その場に居合わせた元の改造社長山本実彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらいなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食わされていたであろう。鏡花と私では年齢の差異もあるけれども、ああいう昔気質の作家はもう二度と出て来ることはあるまい。明治時代には「紅露」といわれて、紅葉と露伴とが二大作家として拮抗していたが、師匠思いの鏡花は、そんな関係から露伴には妙な敵意を感じていたらしい。いつぞや私が露伴の話を持ち出すと、「あの豪傑ぶった男」とか何とか、言葉は忘れたがそんな意味の語を洩らしていたので、鏡花の師匠びいきもここに至っていたのか、と思ったことがあった。
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紅葉の死んだ明治三十六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目団十郎が死んでいる。文壇で「紅露」が併称された如く、梨園では「団菊」といわれていたが、この方は舞台の人であるから、幸いにして私はこの二巨人の顔や声音を覚えている。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、会い損っている人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巌谷小波山人にたった一回、大正時代に有楽座で自由劇場の第何回目かの試演の時に、小山内薫に紹介してもらって、…