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庶民の食物
しょみんのたべもの
著者小泉 信三
文字遣い新字新仮名
底本 「「あまカラ」抄2」 冨山房百科文庫、冨山房
1995(平成7)年12月6日
初出「あまカラ 新年号 第六十五号」甘辛社、1957(昭和32)年1月5日
入力者砂場清隆
校正者芝裕久
公開 / 更新2020-05-04 / 2020-04-28
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 魚をじかに火で炙るということは、ほかの国ではしないことなのか。西洋を旅行して、裏町を歩いても、魚を焼く匂いをかいだ記憶はないように思う。青煙散ジテ入ル五侯ノ家、という唐詩の句は、別のことを詠じたものであるが、とにかく、脂ののった魚を焼く煙が、民家の軒をくぐって青く夕暮の空に上るという景色は、日本独特のもので、われわれに強く国土と季節を感ぜしめる。
 魚を焼くといえば、まずサンマと鰯を想うが、この国で、こんなうまいものが、安く、誰の口にも入るとは仕合せなことだ。私の母は鰯が好きで、私たちが子供のとき――その頃私は魚よりも肉を好んだが――焼いた鰯を食べさせながら、「こんなおいしいものを天子様にさし上げたい」と、よくいった。鰯やサンマのような下魚(げうお)は、宮中の食膳には上らないものと思っていたらしいが、きけば事実は必ずしもそうでもないらしい。それはとにかく、人間が――ことに勤勉で勇敢な日本の漁夫が――捕り過ぎて、魚がだんだん少なくなっていくという。鮭も鱒も蟹もであるが、ますます増加する人口のため、サンマと鰯は取りとめたいものである。
 サンマ、鰯といえば、温かい飯とこなくてはならないが、贅沢な料理の膳に向ったときよりも、かえって家庭で、このような質素でうまい食事をするときに、今日もこうして無事に飯を食うと思い、飯が食えるということが、人類にとってどんなに重いことであるかというようなことを、考えさせられる。サンマから佐藤春夫の詩を憶い出していうのではないが、ひとはどうか、私は食事のときに自分の心が感じやすくなっているのを自覚する。よく食事をしながら、人の哀れな身の上や、健気な振舞の話をきいて、涙を落とすことがある。唾腺と涙腺とはなにか特別の関係があるものか。きいてみたことはないが、昔から、箸を投じて落涙するというような話があるから、これは私一人ではないのかもしれぬ。
 少年時代住んでいた三田の家の、少し離れた並びに、昔、福沢先生を頼って故郷の中津から出てきたという、豊前屋という相当な米屋があり、夕暮など、近所の裏長屋のおかみさんが、味噌漉を前掛けの下にかくすようにして、その敷居を跨ぐのを、私は見て知っていた。米の一升買いということの意味を、少年の私は解していた。どうかすると、わが家の食事のときに、そんな景色を想い出して、急に喉がつまり、涙の味のする飯のかたまりを、無理に嚥みこんだような記憶がある。
 私は政治上あまり好んで民主主義を振り廻すほうではないが、右に書いたような意味で、食物に対する好みは民主的といえるであろう。いたずらに高価な、季節外れの珍味などを出されることなど、好きでない。凝ったもの、ヒネッたもの、変ったものはすべて敬遠するほうである。さして変った物というほどではないが、蝸牛や蛙も御免をこうむりたい。知らずに食うことのないようにと、シナ語の田鶏、…

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