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甘い野辺
あまいのべ
作品ID59879
著者浜本 浩
文字遣い新字新仮名
底本 「「あまカラ」抄1」 冨山房百科文庫、冨山房
1995(平成7)年11月13日
初出「あまカラ 10月号 第五十号」甘辛社、1955(昭和30)年10月5日
入力者砂場清隆
校正者芝裕久
公開 / 更新2020-03-12 / 2020-02-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 子供の頃、私は菓子を食べたことがなかった。家が貧しかったし、また私の郷里の土佐の国では、その頃まで勤倹質素を旨とする風習が残っていたので、菓子はぜいたくなもののように考えられていたからである。
 菓子を禁じられた子供たちは、いろいろと代用になるものを探して食べた。それは私たちだけではなく、どこでも田舎の子供なら同じことかもしれない。
 早春には、まず芝の地下茎を噛んだ。糖分を貯えて越年した若い地下茎である。茅の穂のツバナは無味淡白だったが、噛めば舌端に甘い後味が残った。芝の地下茎も、茅花も、日当りのよい土手の斜面に自生した。
 野薔薇の若芽は、好んで食べる子供と、嫌って食べない子供があった。したがって、その甘味は一般的でなかった。いつぞや銀座あたりの喫茶店で、何気なく卓上の砂糖をなめていたら、もう五十年も前に遊んだ故郷の野辺が、ふと瞼に浮んできた。つまり野薔薇の若芽と、間の抜けたビート糖の甘味にはどこか似通ったところがあるからであった。
 子供たちが、いちばん糖分を要求する夏の季節になると、幸いなことに、私の故郷では、山野の至るところで、お菓子の代用になるものを発見することができた。
 高知市外の潮江天満宮には、椋と榎の並木があった。大粒で肉付きのよい椋の果は小粒で色の美しい榎の果より、はるかに甘く、一合も食べたら、結構おやつの代りになった。私たちは、学校から戻ると、何を置いても天満宮の馬場へ飛んでいった。
 昨年の夏、私は五十年ぶりで、天神様の土手に立つことができた。椋も榎も昔ながらの枝ぶりで、登るときに足をかけた幹の瘤まで、その頃のままに残っている。だが、このごろは、菓子の代りに木の果を食べる子供たちはいないと見え、熟れ落ちた木の果が土手の下草を埋めていた。
 中学生の頃、高知市から十里離れた海岸の町に住んだことがあった。そのあたりは砂糖の産地で、浜辺から裏山にかけ、いちめんの甘蔗畑であった。春の初めに植えつけた甘蔗苗が、夏になると六、七尺にも伸びる。私たちは海へ泳ぎに行ったついでに、甘蔗畑へ忍びこみ、よく肥った茎を折りとって、歯ぐきや唇を傷つけながら、噛んだものである。茎の青い在来種より、茎の紫色をした台湾黍のほうが水気も多く甘かった。
 そんな時に、たまたま畑の土が柔らかく湿っている所を見つけることがあった。掘ってみると、卓球のボールほどの海亀の卵が、二十も三十も埋められているのだった。夜間に上陸した母亀が土を掘って産み落したものである。殻の柔らかな亀の卵は、その場で食べるわけにいかないので、麦藁帽子にいれて戻り、焼卵にした。臭気があって、うまいものではなかった。
 川原へ泳ぎに行った時は、川岸の藪に咲いた忍冬の花の蜜を、むちゅうになって吸ったものである。すいかずらとも呼ばれる、忍冬の白い花の、懐しい芳香が、半世紀を経た今でも、鼻のどこかに残ってい…

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