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みち
作品ID599
副題――ある妻の手紙――
――あるつまのてがみ――
著者水野 仙子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」 不二出版
1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷
入力者小林徹
校正者おのしげひこ
公開 / 更新1999-01-06 / 2014-09-17
長さの目安約 50 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 まだ九月の聲はかゝらぬのに、朝夕のしんめりとした凉しさは、ちようど打水のやうにこの温泉場の俗塵をしづめました。二三日このかたお客はめつきりと減つて、あちこちの部屋にちらりほらりと殘つてゐる浴衣の人は皆申し合せたやうにおとなしくしてゐます。煙管を煙草盆に叩く音や、女中を呼ぶ手の音や、鈴の音が、絶間なく響く谿流の中に際立つてほがらかに聞えるのも、空虚になつた宿のしづかさを語つてゐます。これでやうやく私は自分の棲所にかへつたやうに、安易な心持で朝々の蚊帳をぬけ出る事が出來ます。けれども寂しい。
 今朝、私はこまかに降つてゐる霧の中を、宿の重い山桐の下駄を履いて、音高く橋の上を歩いて見ました。つめたくさわやかな風は、寢卷の上にはおつた袷羽織のなめらかな裏を通つて、袖と袖を離し、縮緬の重さを頼つて、羽織を私の肩から奪はうと企てゝゐました。
『およし、わたしは寒いんだから!』
 私はかう呟きながら川風に逆ひつつ橋を渡つて、それから左の方の道へと足を向けました。左へ、私はこれまでついぞ一度もこの左へは足踏をしてみませんでした。それはますますこの地を奧深く導くところのそれで、小高い宿の廊下に立つて見ると、ちようど地の帶のやうに樹立の下に敷かれてみえるのでした。磐梯の麓をめぐつて行く汽車もそちらへ、さうしてその殘して行く煙の末を見まもりながら、こゝに寄つた郵便屋がまた更に、その左の方の道を辿つて行くのを見る度に、一山越えた里の人家を、そゞろになつかしく思ひやるのでしたけれど、私はやつぱり曾て自分が來た方の道へ、誰か自分を訪ねて來る人に、途中でめぐり合ふことでもあるやうな當もないあこがれをもつて、やつぱりつい右の方の道へと歩いて行くのが常なのでした。
 二つの流もまた右へと走つてゐました。私はその水音に逆ひながら、洗はれたやうに小砂利の現れてゐるでこぼこした道を、きりぎりすの鳴く音を聞き流しつゝ、とぼとぼと辿つて行きました。水際の叢にはまつ白な山百合の花が、くつきりとした襟元をみせてうなだれてゐました。ふりかへつてみると、山の中腹に立つてゐる岩は、青い望樓にのぼつた人間のやうに、さぞちつぽけにみえるだらうと思ふ私を見送つてゐます。また前を見れば山から山にかさなり續いて、その狹間の緑の下から、私の前には一旦隱れてゐる道のつゞきが細く細く、一筋の糸のやうに見えてゐます。前を見ても後を見ても、また横を見ても、この時私の外には、たつた一人の人の影も見る事が出來ませんでした。朝の氣の漲つたぐるりは清淨で、そしてしいんとしてゐました。
 ふと氣がついてみると、こまやかな霧の中を縫つて來たために、私の着物の袖はしつとりと霑つてゐました。さうしてどうしたといふのでせう、その時私は別にこれぞといふ心を覺えることなしに、いつか自分が涙ぐんでゐるのを知りました。そしてそれを知…

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