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書翰
しょかん |
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作品ID | 59946 |
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副題 | 044 大正十一年九月(推定) 小島勗宛 044 たいしょうじゅういちねんくがつ(すいてい) こじまつとむあて |
著者 | 横光 利一 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本 横光利一全集 第十六卷」 河出書房新社 1987(昭和62)年12月20日 |
入力者 | 橘美花 |
校正者 | 奥野未悠 |
公開 / 更新 | 2020-06-24 / 2020-05-27 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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44 九月(推定)小島勗宛(四百字原稿用紙十一枚・ペン書)
此の手紙は幾度も書かうとした。しかし、その度に僕はひかへることにした。別にひかへる理由はないのだが、默つてゐても、あるときが來れば僕の氣持ちが判然とするだらうと思はれたから。しかし、今は、書かないと云ふことのためのみにでも、僕は益々憂鬱に、そして落ちつきがなくなりつつあると云ふ状態だ。何もかも總てのことがらを書かうとすれば恐らく千枚の長篇にはなるにちがひないのだが、しかし、今はここではさうは書けない。そのために、或ひは誤解をされないとも限らないとも思はれるが、しかし、どうぞ、怒るやうな所があつても、それは後からにして欲しい。そして俺の文字だけでも讀んでもらひたい。何から書いていいか。とにかく僕はここでは嘘を書かない。そのため、僕の思はぬ所で君の不愉快な所があるかも分らない。君が此の頃僕に不愉快を感じてゐる原因、それは俺にはよく分る。君の留守に君の家へ行くこと、これが第一の原因だと僕は思ふ。僕もそれをいけないことだと充分思つてゐる。しかし、正直に云ふと、僕は君の留守にではなく、總ての人達の留守のときに、行きたい氣持ちが張りつめてゐる。君は「俺を無視してゐる。」と思つてゐるにちがひなく、さう思はざるを得ないのも充分分つてゐる。しかし、僕のあの行爲は決して君を無視してゐるのではない。俺のやまれぬ心だ。俺は君に叱られれば勿論、何の返答もなく頭を下げざるを得ない。けれども、俺の愛は四年の間、常にどうして一つの所にとどまつてゐることが出來るだらう。俺は締めに絞めて來た。しかし、それは、いくら締めても漸次に深みへ前進して行く締めかたにすぎなかつた。最初は、僕の愛人が(どうぞかう書くことを赦してくれ。)どんなことをしやうとも僕は少しの嫉妬も感じなかつた。しかし、軈て嫉妬を感じ始めた。これが苦痛の最初であつた。その頃は誰が傍にゐやうとも僕は決して不愉快を感じなかつた。さうして話が自由に出來た。此の愛の時代が最も長かつた。しかし、僕の愛人はだんだんと人々が傍にゐると、僕に對する態度が、ごく普通の者に對するそれと同じになつて來た。それにひきかへ、人々がゐなくなると、益々、彼女の愛情が深まるのを僕は感ずることが出來るやうになつて來た。一體、何人が、かかる現象を喜ばない者があるであらう。僕は彼女の愛を感じやうとしたければしたい程、人々が二人の傍にゐることを欲しなくなり出した。しかし、僕は僕の所へ一人來て下さいとは曾て一度も云はなかつた。もしも、彼女が、僕の友人のシスターでなかつたなら、僕は二年前に云つてゐたにちがひない。しかし、このときから、自分の愛人が友人のシスターであると云ふことが、安全であることを喜びながらも、その一方で多くの苦痛になるにちがひないと思ひ出した。何ぜなら、絶えず二人の愛情は進化を赦されなくなるに相違な…