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昼の花火
ひるのはなび
作品ID59948
著者山川 方夫
文字遣い新字新仮名
底本 「戦後短篇小説再発見 3 さまざまな恋愛」 講談社文芸文庫、講談社
2001(平成13)年8月10日
初出「三田文学 第四七三巻第一号」三田文学会、1953(昭和28)年3月1日
入力者toko
校正者noriko saito
公開 / 更新2020-02-25 / 2020-01-24
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 野球場の暗い階段を上りきると、別世界のような明るい大きなグラウンドが、目の前にひらけた。
 氾濫する白いシャツの群が、目に痛い。すでに観客は、内野スタンドの八分を埋めてしまっている。
 グラウンドには、真新らしいユニホームの大学の選手たちが、快音を谺するシート・ノックの白球を追って、きびきびと走り廻っている。日焼けした顔に、真上からの初夏の光が当って、青年たちは、野獣のように健康な感じだ。捕球する革具の、鈍い響き。固く鋭いバットの音。掛声。それが若々しい声援や拍手に入り乱れて、通路を歩きながら、彼も軽い昂奮に引き入れられた。
「うん。上手い」
「チェッ、まずいな」
 そんなことを、席をさがしながら、無意識に口にしていた。
 並んで坐ると、すぐに女は訊いた。
「これ、まだ練習なの?」
「うん。まだ練習なの」
 場内の昂奮に感染したみたいに、女が拍手をする。弾ぜるような音だ。それが続く。
 肉の豊かな、やわらかな女の掌を感じさせて、瞳の隅で、その白い灯がちらちらする。避けるように、彼はグラウンドをみつめた。
 フィールドの土は、湿っていて、その焦茶いろが新鮮だった。
 昨夜の小雨のせいだろうか。
 いま歩いてきた外苑の鋪道に、紙屑がべったりと貼りついたまま乾いて、枯れた花の色をしていたのを、彼は思い出した。
 道の両側につづく木々は、皆、染まるような青葉だった。それが、次つぎとよく繁った枝を繋げていて、いくつもの幹をもつ緑の暗い雲のように、若い芝に影を落していた。その外苑の木立がいま、外野席の向うに、濃緑の帯のように見える。
「ねえ。練習に手をたたいちゃ、へん?」
 女は、野球を知らないのだ。
 大きく、彼は空気を吸った。日に焙られて、頬が熱い。
「ううん。たたいたって、いいの」
 だが、女は拍手を止めた。
 汗ばんだ掌の音が急に止んだのに、ふっとひっかかって、彼は、
「手、たたいたって、いいんだよ」
 そううながすようにいった。そのとき、女は、なにも見ない目をしていた。
「……きっと、まっ黒けになっちゃう」
 やがて、女は独りごとのようにいうと、敏捷な手つきで、白い手巾を前髪の上にひろげた。その日、女は濃紺の細いタフタで、髪を束ねていた。
 十九歳の彼に逢うとき、四つ年上の彼女は、いつも若く粧っている。態度にも、その努力が出ていた。ようやく此頃、彼はそれに無関心になった。
 手巾の笹縁が、額に淡い三角の影をつくり、女は、豊かな髪を持ち上げるように、両手を首のうしろに廻した。すこし上目づかいに彼をながめ、その唇が笑った。
 女の顔の上に、斜めに人びとの肩がそびえ、どの顔も申し合わせたような明るい表情で、グラウンドの球の行方を追い、眸が動いている。さらにその上、人びとの顔で埋った観客席の斜面を照りつけて、青空があった。
 太陽は、その中央近くにある。
 誘われた…

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